さめつり

 夜のとばりが降りる頃。吹きすさぶ寒風をものともせず、次々と人が集まってくる。大阪ミナミの繁華街、というよりは電気街として知られる日本橋から歩いて数分の場所にある、今宮戎。新年あけての一月十日は「十日戎」として知られている。要は一種のお祭りだ。
由香里は会社の同僚である山本とともに、社長命令でここにやって来ていた。この不況の中、
「今年こそ上場を!」
との意気込みにかける社長は、もう神様でも何でも、使えるものはとことんまで使い尽くすつもりらしい。近畿県内の別の神社やお寺にも、山田や玉置といった社員達が派遣されていた。
「でも凄い人ですねぇ。やっぱり不況だからかなぁ?」
「たぶんね。」
そんな他愛もない話をしながらお参りを済ませ、札を買う。そしてふと周りを見回したときに気が付いたのは、そんな不況に負けまいと一生懸命なのは、参拝に来ている自分たちのような人ばかりではなく、露店を出している人たちもであることに気が付いた。そこかしこに
「金魚すくい」
「ベビーカステラ」
「お好み焼き、焼きそば」
などの看板が見える。
そのおいしそうな香りにもちょっとつられはしたが、その中でも由香里が最も気になったのは
「さめつり」
と書かれた看板を掲げる露店であった。それはその他の露店とは異なる、一種異様な雰囲気を醸し出していた。
「山本さん。あの『さめつり』って看板、なんだと思います?」
疑問に思った由香里は隣をふらふらと食べ物の匂いにつられながら歩いている山本に尋ねた。彼はどうやらいつものようにラーメン屋がないか探していたらしい。
「え?ああ、あれ?ヨーヨー釣りみたいにな、鮫を釣るねん。」
「鮫ですか?!」
「あ、鮫言うてもおもちゃやで。いくらなんでも本物なんか危ないから・・・」
そこまで言ったとき、その露店の方から
「ギャーァァァァァ・・・・・」
という断末魔の悲鳴が聞こえてきた。説明していた山本の口がぴたっと止まる。何となくいやーな予感がしたような気がした。二人は首をギギギィという音がたっているんじゃないかというくらいゆっくりと、そしてぎこちなく回してその「さめつり」と書かれた露店の方を見た。
悲鳴はもう聞こえてこなかったが、そこには見覚えのある人物が一人立っていた。同じ会社の田村だ。
「あれ?あれ田村さんとちゃう?」
「あ、ホンマや。確か別の所に行ってたはずやんなぁ・・・」
そう、他の神社に派遣されているはずの田村が何故かそこにいたのだ。そして大きな銛を構えている。どうやら「さめつり」の順番待ちをしているらしい。
「山本さん。あの銛で釣るんですか?」
先ほどの山本の話とはあまりにも違うその田村の準備姿に、思わず由香里は尋ねた。どうやら山本も戸惑っているらしい。どうやら彼が思い描いてた「さめつり」とも違うようだ。

 やがて田村が入っていった。中から激しく水がはねる音と田村の
「おりゃ!」
とか
「とぅ!」
とか
「こなくそ!」
とかいう気合いのこもった言葉が聞こえてくる。どうやら何かと闘う必要がある「さめつり」らしい。山本は既に腰が引けているようだったが、由香里は逆に闘志をそそられていた。おもむろに山本に向かって言った。
「山本さん、やりませんか!」
「い、いや、だってあれはどうも・・・その・・・いやさすがにちょっと・・・」
冷や汗が山本の顔全体に吹き出す。唇は少し青くなっているようにも見える。二人とも何が中で行われているのかは完全に想像がついていた。が口に出すのは何となく憚られた。二人の対応の違いは、ただ単に性格的な差でしかない。
「山本さん、私はやりますね。だって二百円ですよ。」
山本は何も言わなかった。二百円が命取りになると言っても、こうなった由香里は聞かないであろう事を知っていた。彼女はそういう女性だ。
そういうやりとりをして、由香里が二百円を入り口にいた黒縁眼鏡をかけた男性に渡したたとき、店の奥からひときわ盛大な水しぶきと共に何かが飛び出してきた。よく見てみると、それは腰まで大きなホオジロザメに食いつかれて血を流している田村だった。
「痛い、痛い」
と騒いでいるうちに、彼はサメに飲み込まれてしまった。サメは彼を飲み込むと再び店の奥に戻っていったが、その時
「ポリンキー ポリンキー・・・・・」
というスナック菓子のメロディがどこからともなく流れてきた。発信元を探してみると、さきほどまでサメのいたところに田村の携帯電話が落ちていた。
「田村さ~ん、携帯鳴ってるよ~。」
山本が誰に言うともなしに、うつろな声でつぶやいた。どうやらさっきのシーンがあまりにもショックだったらしい。そのショックは他の順番待ちをしていた連中も同じだったらしい。確かに悲鳴を聞いてはいたが、まさか本物とは思ってもいなかったのだろう。USJのジョーズだって作り物だからみんな見に行くのであって、本物に襲われるのなら行列してまで見に行こうとは思わないだろう。
しかしそれが由香里の心に火を付けた。闘志が湧いてきた。その目は
「あれは私の獲物よ!」
と物語っていた。彼女はやっぱりそういう女性だった。尻込みする他の客を押しのけて、片手に銛、片手に山本の腕を掴んでずかずかと中に入っていった。今の光景を見た後では、誰もその順番抜かしを攻める者はいなかった。

 中は意外と明るかった。目の前には二十五メートルプールのような空間があり、その中を黒く大きいものが泳いでいる。露店のどこにそんな広さがあったのかはわからないが、もっと暗い雰囲気を想像していた由香里はちょっとがっかりした。しかしそれもつかの間でしかなかった。由香里の右手側から突如水しぶきと共にあのサメが飛び出してきた。由香里はあわててワンステップ後ろに下がると、その勢いのまま銛を突き刺した。
「はずしたかっ!」
角度が浅かったのか、鮫の肌に銛ははじかれ、獲物はそのまま遠ざかっていった。しかしそれも次の攻撃に向けて体勢を整えるためにすぎないことを由香里は肌で感じ取っていた。
第2撃も不発だった。お互いに全く傷を負わすことが出来ずにいる。由香里は「次は外さないぞ」とばかりに銛を構えて仁王立ちになり、鮫が移動するのを見ている。その隣で山本は「さめつりっていうのはね、もーたーで動くおもちゃのさめを・・・」と十分ほど前、由香里に説明していたセリフをブツブツとつぶやいていた。どうやら現実逃避に入ってしまったらしい。
そんな山本を後目に、第三撃の準備を整えた鮫を由香里は迎え撃つために銛を構え直した。二撃目の時に裂けたスカートからすらりと伸びた足も美しく見える。長い髪を振り乱したその姿は、ギリシア神話のアテナ女神もかくやというところだ。その由香里に田村を飲み込んだ鮫は再び襲いかかってきた。水面を巨大な尾びれで叩いてプールから飛び上がり、上方から一気に由香里めがけて逆落とし攻撃をかけてくる。由香里はひるまずわずかに横移動して鮫の歯の直撃を避け、その目をめがけて銛を突き立てた。銛は寸分違わず鮫の左目を貫く。その痛みに怒り狂ったのか、鮫はその場で尾びれを始め、体を大きくばたつかせ、しならせて暴れた。それをよけようとした由香里は足を滑らせて体勢を崩したところを鮫の歯にひっかけられ、上着を胸から左腕にかけて引き裂かれた。左の二の腕からは少し血もにじんでいる。さらに悪いことには続く尾びれの攻撃で足を引っかけられて転倒した際に、鮫に突き刺した銛を手放してしまった。

 鮫は何とかしてプールに戻り、怒りもあらわに再び攻撃態勢を整えようとしていた。由香里は左腕を押さえながら周りを見渡し、そこに山本が持っていたものらしい銛が落ちているのを見つけた。しかしとりあえずそれを拾いはしたものの、床にたたきつけられたダメージが抜けきらず、次の攻撃を敏捷に避けられるかどうかは微妙なところだった。
「何とか鮫に隙を作らせないと・・・」
彼女は何か役に立ちそうなものを探して視線を走らせた。そして見つけた。
(よし!)
そう思って彼女は鮫の動きを見ながらそのもののところへゆっくりと移動した。鮫の方も右目だけで彼女の動きを追いかけ、攻撃の隙をうかがっているようだった。どうも鮫も彼女と同じく、次が最後の攻撃になることを感じ取っているらしい。
彼女がその場所にたどり着いたとき、鮫は一気に攻撃してきた。再び上方からの逆落としだ。彼女はそのものを鮫の方に押しだし、攻撃を避けた。そのものはまだブツブツと何か言っていたが、立派に楯の役割だけは果たした。由香里はそれによって出来た隙を逃さず、今度は右目に銛を突き立てた。そして素早く引き抜くともう一度、今度はより深く目の部分に突き刺した。
鮫はしばらくのたうち、暴れていたが、だんだんとその勢いは弱くなり、やがてぱったりと動かなくなった。
「やったーっ!」
彼女は右のこぶしを上に突き上げ、勝利のポーズを取った。店の外にいた他の客や黒縁めがねの店主が入ってきてその様子を見、盛大な拍手で彼女の勝利を祝った。彼女は困難を克服し、見事に乗り越えたのだ。衣装を引き裂かれ、腕から血を流しながらも勝利のポーズを取るその姿は、周りの人からすると女神のように見えたことだろう。「民衆を先導する自由の女神」にも似たその姿は多くの人々に感動を与えたのだ。
その日、由香里は今宮戎のヒロインとなった。

 やがて彼女は会社を辞め、芸能界にデビューした。田村と山本は一命を取り留め、今も
「今年こそ株式上場を!」
と叫ぶ社長と頑張っていると言うことだ。
 

ある条件

これはそれほど近くも遠くもない未来の物語である。ただし、れっきとしたフィクションであり、現存する人物、組織、団体、宗教、国家、社会、学問体系(特に遺伝子工学、機械工学、医学)及び小説・マンガ(特にサイバーパンク系)その他もろもろとは一切関係ない事をまず明言しておく。ではごゆっくりお読み下さい。

街路樹の 灯火くもらす 北の風
                                                 霧亜

「どうかね、名句だろう。」
「ええ、ええ、霧亜様。これにはかの一茶でもかないますまい。」
側にいた者がおべんちゃらを言うのを、男は満面に笑みをたたえて聞いていた。彼は『霧亜』と呼ばれた男の自称『一番弟子』である。もっともおべんちゃらを言われた霧亜氏にとっても、この句は改心の出来であったのであろう。その証拠に彼の顔に浮かんだ笑みは少々だらしのないものであった。
「うむ、この句をな、今度の国際文化祭の俳諧部門に出品しようと思っておるのだ。何とかして入賞したいからな。」
「何をおっしゃいますやら。この句ならば、世界を制したも同然ですよ。」
霧亜氏はさらなるおべんちゃらに気を良くして、
「よし、では今から文化省に行くぞ。今度の文化祭は全国から参加者を募っておる。もしこれで第一席に入賞出来れば、私はこの国で、いや世界で一番の俳人として認められるだろう。」
と言い放った。ちなみにこの言葉のおかげで、おべんちゃら男は、霧亜氏が入賞した暁には『自称』ではなく、師匠公認の一番弟子となる事になるであろう。
霧亜氏は人間そっくりの外見を持つ執事ロボットに手伝ってもらいながら、焦げ茶のスーツに袖を通し、ネクタイを締める。少々派手なピンクと碧のスプライトは今年の流行の柄だ。そして一通り準備が整うと、執事ロボットに命じてブランド品の交換オイルドリンクを持ってこさせ、グラスにそそがせて、出かける前の景気付けにと一気に飲み干した。
「ではいざ行かん、文化省へ。」

「何故出品できないんだ?」
彼らが文化省内に設けられた文化祭作品受付所へ行くと、先着の男が係員ともめていた。
もめている男は中肉中背の体に紺のダブルの背広を着込み、髪もきちんとオールバックにあげ、全身から
「儂は別に怪しい者ではない!」
というオーラみたいなものを発していた。
「知らないんですか?この作品展には人権を持っている人しか出品できない、という決まりがあるんです。」
と係員は、うんざりした表情で尊大に言い放った。
「見たところその有機ボディ、あなたはロボットだ。高級かなんかは知りませんがね、半人権を法律で認められているとはいえ、この文化祭ではおよびじゃないんですよ。」
その言葉と同時に、言われた男の顔が怒りで真っ赤になり、次の瞬間溜まっていたものが口をはけ口として、一気に吹きだした。
「失礼な!」
男が叫んだ。
「こ、この私に向かって、よりにもよってロボットだと?き、きさまは第十五代目日崎霞の名を知らんのか、この無礼者!」
言われた係員は、この罵声でついに事の真相を理解したらしい。
(この文化祭に参加するのは機械ボディの市民だけ)
と思っていたのが、裏目に出てしまったようだった。もし有機ボディなら顔が真っ青になっているであろう態度で、平謝りに謝っているところへ、事態の報告を受けたらしい直属の上司まで現れて、大騒ぎになってしまった。が、日崎霞と名乗った男の方もそれである程度機嫌を直すくらいは満足したらしく、苦い顔をしたままではあったが、作品を出品して、大股で去っていった。
「先程の男が日崎霞だったんですねぇ。私は初めて見ましたよ。」
「ああ、生身の有機ボディが最も美しいなどというつまらん迷信をいだいとる貧乏人じゃ。どうせおおかた手術の金がないのを胡麻化す理由にでもしとるんだろうよ。」
執事ロボットの言葉に、霧亜氏はそう答えた。
「人間は過去、自分を美しく見せるために、化粧だの、整形だのをやってきたが、そんなもんには限界がある。生来の身体だけは、どうしようもなかった。それがだ、この機械ボディのおかげで自分の好みに合わせた身体にまさしく自分自身をドレスアップ出来るようになった。奴や、その他の有機ボディ信者にはその素晴らしさがわからんのさ。」

「ねぇ、旦那様。我々ロボットと人間の違いってなんなんでしょうかね?」
「何だ、いきなり。」
「いえ、人間の側でも機械ボディの人と、有機ボディの人がいて、我々ロボットの中にも機械ボディと有機ボディの2つのモデルがありますよね。だから日崎霞のような方は人間かロボットかが見分けてもらえなかったんでしょう?」
「う、ま、まあそうだな。」
「一体どこで見分けるんでしょう?」
「そんな事聞かれても儂にはわからんよ、技術者じゃないんだから。そうだな、メンテナンスと合わせて、聞いてきたらどうだ。」
「ええ、そうしてみます。」
それを聞いて霧亜氏は
(こいつもついに買い替えの時期かな)
と考えた。

「私はね、そりゃ人間に奉仕するために作られたロボットだよ。それも最高級品としての有機ボディを与えられたね。」
執事ロボットは「ふう」とため息をついた。
「でももう嫌気が差したんだ。」
人生に疲れた、もしロボットにそんな感覚があるのであればだが、ちょうどそんな感じだった。現在で言うと中年のサラリーマン、典型的な中間管理職といった感じだ。執事ロボットはさらに続けた。
「大体、人間とロボットの差っていうのは何なんです?ボディですか?そんなものは今の技術があれば、人工的に有機物で臓器を造る事なんて造作もない事でしょ。私らの身体がそうなんだから。なんなら遺伝情報まで見せてやれるくらいだ。」
その様子を横目にしていたメンテナンスロボットは、通信ディスプレイの中に
『廃棄処分』
の文字を見つけた。
「まあ確かにね。近年では、人間の方は生まれて来たときだけが有機ボディ、だと言っても不思議じゃない状況だもんね。」
メンテナンス・ロボットは無表情な顔で(もっとも人造皮膚でもなんでもないから、表情なんてそもそもないが)事務的に受け答えをした。彼が行った受け答えは、患者(ロボット)の詳細なメンテナンスデータとなる。それをデータバンクの中に発見したが、執事ロボットにとってはそんな事はもうどうでもいい事だった。
「私はね、もう疲れたんですよ。」
メンテナンスロボットは通信ディスプレイの指示に従って、執事ロボットのメインスイッチを切り、速やかに廃棄処分にした。

同じ頃、もめにもめた文化省でも、国際文化祭企画部部長が、反省会中に部下と共に頭を抱えていた。
「報告します。本日の半人権所持ロボットによる不法出品未遂は十五件。人権所持者に不快な思いをさせたのが一件。以上です。」
報告を受けた一同は、一様に暗い顔をした。
「日崎さんもいい加減機械ボディに代えればいいのに。有機ボディなんてメンテナンスも大変だし、すぐ壊れるし、厄介なだけなのに・・・」
今日受付担当者と一緒にさんざん怒られた部長は、そうボヤいた。おそらく怒られるきっかけとなった張本人も同じ気持ちであったろう。彼は部長から少し離れた場所に座っていて、上司とは少し違って、ふてくされていた。
「しかしそうとばっかりも言ってられませんよ。何しろ機械ボディが普及しだしてからというもの、以前のように金持ちだけでなく、貧しい市民も有機ボディを捨ててきてますし、さらに金持ちでも有機ボディを捨てない者も出てきてますからね。早く何らかの対策を立てないと。聞いた話では市役所の住民登録や証明書の発行やってる所なんて、毎日数十件はこんなもめ事が起こってるらしいですから。」
今日は電話の応対で忙しく、何とか難を逃れた者がそう提案した。もっとも、聞いていた部長の心中は、
(そんな内容の提案ならロボットでも出来る!)
と、手厳しいものであったが、それは実際に問題が生じてしまったその場所に居合わせた者との違いから生じているので、仕方がないと言えば仕方のない事である。
「そもそも人間とロボットの違いってのは、有機物で出来てるか、無機物で出来てるか、だったよな。」
部の一人が言った。
「まあ本来はそうでしたが・・・」
何を昔の話を持ち出すんだ?とでも言いたげに、別の者が応じた。
「それがどうだ。最初は臓器移植に使われたクローニング技術が進歩したおかげで、高級なロボットには人間と同じ有機ボディが使われた。がだ!有機ボディはさっきも言ったように壊れ易い。メンテナンスも大変だ。だから機械ボディに代えるのが流行った。」
「おかげで今は人間の方が機械ボディで、ロボットの方が有機ボディときたもんだ。」
「みんながみんな機械ボディにしちゃえば問題なかったのになぁ・・・」
一人一人が思った事をどんどんと口に出し始めた。この手の会議にしては異例なのは、本来なら進行係を務め、議事に関係ない発言を打ち切るべき部長自身が、この会話に加わっている事であろう。おそらく彼も何らかの有効な対策を考えるために、何か喋り続けて、その中から解答を得ようとしているのだろう。
「そう、だから今日みたいな問題が出てくる。今までは機械ボディにしてないのは人間とロボットの差とは一体なんだ?」
「いや、だからそれがややこしいから、去年『ロボット半人権法』なんてもんが出来たんでしょ?」
「いや、あれのおかげで余計ややこしくなったよ。やれやれ、『ロボット3原則』だけで済んだ昔が懐かしいね。」
「確か、有機ボディは最初は移植しても拒否反応を起こさない人工臓器から出発しましたもんねぇ。」
「それが今や有機ボディロボット全盛時代か。で、結局人間とロボットの差ってなんなんです?」
「ボディの差にしたいけど、機械ボディも有機ボディもすぐに複製がきくからなぁ。」
「脳かなぁ?確かにこれだったら難しいけど。いや、以前は難しかったと言うべきだな。今じゃ遺伝情報を基にして、造る事が可能だもんな。しかもコンピュ-タ-を使って短期で”皺”を付けることだって出来る。それも何才のものでも。」
「ええ、近年の研究では、人間の持っているオリジナルよりももっと効率の良いものがありますからね。そんなロボットも既に現役にいますよ。」
部長は頭を掻いた。
「つまりだ、今の技術があれば、文字通り人間を造る事が可能なわけだ。問題は、多くの人間は機械ボディにしているのに、有機ボディ派は自分が生身の人間である事にこだわり、ロボットと同じ外見でいる。ここだ!」
断言した。きっぱりと。諸悪の根元見つけたり!そういう感じだったが、部下の一人はさらにつけ加えた。
「しかもロボットのくせに俳句詠む奴が出てきたんですもんね。いっそのこと出品を認めたらどうなんです?」
「それは出きん!そもそもこの国際文化祭は由緒正しい祭典だ。ロボットごときに参加を認める訳にはいかん!」
「じゃあ聞きますけどね、」
部下たちの方にもさっきの
『ロボット参加派』
にくみする者が何人か現れ、反論した。
「一体我々と奴らと、どこが違うというんです?」
「そうですよ。例えばこの句なんて、そんじょそこらの人間が詠んだものより巧いんですよ。」
部長を始めとする保守(反対)派は、「うっ」と声を詰まらせた。その事は当然ながら知っていたのだ。参加派の者はさらに畳み掛けた。
「大体ね、最近流行の機械ボディになってから、俳人の質が落ちましたよ。私はもう二十年もこういう仕事に携わって来ましたけどね、はっきし言って最近の俳句はカスです!」
「いやそこまで言わなくても・・・」
周りの者が何とか過激な発言を抑えようとしたが、彼の勢いは全く止まらなかった。
「いいえ、言わせてもらいます。どうも機械ボディに皆がなってからというもの、感覚的な部分がかなり弱まっているような気がしてなりません。それがもろに俳句などの分野に現れてるんですよ。」
「そういや、最近の面白い句はみんな従来の有機ボディの人ばっかしだもんな。」
「そうですよ、デジタル信号にして、周囲のものを認識するようになって、感覚が大ざっぱになってしまったんじゃないのかなぁ。」
討論は際限なく続いた。それに皆が疲れはてた頃、部長が一息つこう、と言い出した。
「ふう、やれやれ・・・」
部長、その他の一同はほぼ同時にため息をついた。
「で、一体我々と奴らと、どこが違うというんです?」
新型ロボットの開発スタッフ一同か、または生体研究者がここにいれば何らかの回答を得る事が出来たかも知れないが、現在この部屋にいるのはただの事務屋に過ぎない。当然満足のいく回答が得られるはずはないのだが、そう言わずにはいられなかった。
結局この日は、
「明日からは出品受付に際しては、身分証明書の提示を求める事。」
という無難な結論だけを確認して終了した。
「子孫を残すかどうか、ですかね。」
と誰かが言ったのは、会議も終わりに近づいた、もはや誰も聞いていない時だった。

さて、こうして誰もが人間とロボットとの区別を付けられなくなったとき、我々は何をもって判別を付ければ良いのだろう?勿論生物の条件は、「生殖機能を持ち、種を保存する」事であるから、文化省の誰ぞが言った事は正しいのだが、実はこの後生殖機能を複製する事が可能となり、また人間は機械ボディ化によって、出生率はほとんどなくなってしまう。まさしく時代は混沌へと突き進んでいた。

生身であることをやめ、身体を機械化した人間と、高級指向のため有機物で身体を構成され、人間と同じ機能を持つに至ったロボット。果たしてどちらがより人間らしいのやら・・・
 

色彩

 「あら?」
それはキンモクセイの香りのする、とある秋の土曜日の朝の事でした。いつものように北海道バターと好物のブルーベリージャムを塗った6枚切りの食パンをかじっていた私の目の前、そう、距離にすればほんの二、三十センチ前に飾ってある、確か今年の九月の終わりに、「部屋の雰囲気を変えようかしらん」と思って買ってきた観用植物。なんていう名前だったかは思い出せないんだけど、結構高かったその葉が斑入りになっていました。つまり緑の葉っぱのところどころが白くなっているわけ。私は不思議に思い、首をかしげましたが、大学で講義もありますし、あまり気にせず、「帰ってから考えよう」程度に思って、準備もそこそこに家を飛び出しました。あ、もちろん鍵はしっかりとかけましたけどね。
エレベーターに乗って一階めで降りると、隣の部屋に住むおばさんと、反対側に2つ隔てた部屋の若奥さんとが、おそらくは子どもを幼稚園に送り出してきた帰りなのでしょうが、立ち話をしていた。
「そうなんですよ、うちの貴志ったらまたジュースをこぼしちゃって・・・・・あの子だけなのかしら?」
「いいえ、そんな事はありませんわよ。うちももう三人目ですけど、あの子もやっぱり同じ事をしましたもの。ほんっとに行儀が悪くて・・・・・。上の二人もそうだったけど、子どもっていうのはどうしてああなんでしょうねぇ。」
(あなたも含め、みんなそうよ)
そんな他愛のない会話に、心の中で反応しながら、その横をすり抜け、愛用の赤い自転車に乗って、ほんの数分のところにある大学までいったのです。(下宿生は楽ね、程度に思って)

 「あれ、遅かったんじゃない?どうしたのかと思ったよ。」
大学に着いたのは始業のベルがやかましく鳴り響いている真っ最中でした。いつもの如く、教授はきっちり十分遅れて来るようで、まだ木製の教壇上には、その姿はありません。学生の方も慣れたもので、当然それに合わせて登校して来るので、(来る人間は、ですけど)現在百人以上入る広い講義室にいるのは、私といつも早めに来ている友人の景子、その他数人だけで、あとは放課後の様にしーんと静まりかえっています。そうこうしている内に、時間は九時三分、このガランとした雰囲気が人の騒然さに埋め尽くされる五分強。でも何かそこにはいつもと違うものが漂っていました。その原因に最初に気が付いたのは景子でした。
「ねぇ、彩とおんなじマンションに住んでる彼女、今日まだ見ないね。」
そうでした。私と同じマンションの同じ階に住む、早朝組の一人の橘友子という女の子がまだ来ていませんでした。彼女とは近所に住み、同じ大学に通い、いくつか同じ講義を受講し、さらに早朝組である者同士、時々帰り道や買い物を一緒にする事がありました。とは言え、どちらかというと彼女は内気な面が強く、友人はあまり多くない方だと思います。
「ねぇ、そう言えばさぁ、あの娘これが出来たらしいんだけど、知ってる?」
と、景子は左手の小指を立ててみせました。
「何々?景子が騒ぐくらい格好の良い男なわけ?」
「そっ!何とあなたも私も、みぃーんながご執心の和広氏。」
その名を聞いた途端、私の頭にテレビでよく出て来る十トンハンマーでぶん殴られた様な衝撃がはしりました。
「えーっ!彼、友子とつきあってたのぉーっ?!し、知らなかった・・・・・」
「俺がどうしたって?」
突然後ろから湧いて出たこの声の持ち主を求めて、振り返ってみると、誰あろう、当の本人がそこにつっ立っていました。
サッカー部のエース・ストライカー、身長一八四センチ、体重六八キロ、黒髪、黒瞳、書道二段、算盤一級、右肩甲骨の下にカシオペア型の五つのホクロあり、の美形で親切丁寧を絵に描いた様な彼を慕う女の子は数知れず。
「和広君て、この講義取ってたっけ?」
あわてた私と景子はそうハーモニーを奏で(?)てその場を取り繕いました。なんてちんぷんかんぷんな事を言ってしまったんだと、一瞬後悔で頭がわやになりました。どうやら隣の景子も同様だと、顔こそ見えないけど、思いました。が、彼の反応はもっとひどく、私達は冗談で言ったつもりだったのに、真剣に考え込み、あげくの果てに、
「いや、実は取ってたんだけど、出てなかったから・・・どっちでもいいからノート貸してくんない?」
ときたもんでした。あ、あのねぇ・・・・・・あんたには友子がいるんでしょっっっ!とは決して言えないシャイな私でした。
でも景子は違った。そもそも私なんかとは
一 心臓の強さが違う。
二 性格の悪さも違う。
三 頭の悪さも違う。
四 顔の悪さも・・・いてっ!
(うーむ流石は景子、私が何考えてるか見通しているわ)
和広君の方に体を向けたまま私の頭を張り倒した景子に、しきりに感心しながら二人の話を聞いてみると、
「あーら、和広君には”と・も・こ”という素敵な彼女がいるじゃございませんか。私たちの様な顔も性格も悪い者共を相手にしていてはいけませんわ。ね、彩。」
などという事をいけしゃあしゃあとのたまわっている。しかし彼の方もさるもの、ひっかくもの、ちゃんとこの鋭い突っ込みに対して切り返しました。
「いやあ、本当にそうかも知れないね。彼女にもよく言われるんだ、友達を選んで付き合ってねって。」
今度は景子が、開いた口が閉まらない状態に陥った。
(このままいつまでボケとツッコミ合戦が続くのかしら?こんな時に限ってあの教授休講だなんて言いだすんだから・・・)
そう思っていたら、案の定直後に同じ専攻の男の子が講義室の扉をガラリと音をたてて開け、
「休講だぞぉ-っ、休講!おい和広、茶店行こうぜ、茶店。」
とズカズカと入ってきてのたまいました。
「やっぱり・・・・」
思っていた事が的中した私がボソリと独り言を言うと、その言葉を聞きつけた地獄耳の景子が、何やら非難がましい目でこちらを見ているのが目につきました。それを見て
(しまった!)
と思いましたが、最早時既に遅し、彼女の機関銃の様に矢つぎ早に発せられる非難の攻撃に退路を断たれた私の姿を、その時講義室にいた者は見ることが出来たのでした。
「あんたねぇ、休講だってわかってたんなら、何でもっと早くそう言わないのよ!大体ねぇ、あんたってば・・・・・・・・うんぬんかんぬん・・・・・・・・わかる?つまりね、私が言ってるのは決して和広君のことじゃなくて・・・・・・あーたらこーたら・・・・・何と大根一本が何円したと思う?あの値段ったら絶対信じられないわよ。それというのも・・・・」
もう既に当初と大きく論点のずれてしまった彼女の話を馬耳東風にしながら、彼女の話が落ち着くのを待っていると、十分ほども経った頃でしょうか、遂に舌の回転ペースが落ちてきて、ものの数分もしないうちに停止しました。
「あ、あのさぁ、ぜいぜい、普通どっかで止めない?」
「うん、止めない。」
私はそうたった一言だけ言いましたが、さすがに景子のぜいぜいいっている姿を見ると、何か付け足しの言葉でもかけてやろうか、という心境に陥りました。
「だってさ、景子のあれって話の腰を折っちゃうと余計長くなるしさ、大体休講じゃないかなって思ったのも講義前にああいう事がある時はよく休講になるから、『やっぱり』って言っただけで・・・わかる?」
「はいはい、わかったわかった。」
それは何の変哲もない大学の朝(こんな事はよくある事)でした。

 翌日、友子孃はまたお休みでした。二日も連続して、しかも原因もわからず彼女が休むのは、私や景子が知る限りにおいて、これが初めてでした。
そしてその日の昼休み、私と景子は外に食べに行こうとしていた和広君を強引に捕まえ、景子いわく「友子お見舞い大作戦」の相談をしていました。
「ねぇ、彼女今日も来ないみたいね。風邪でもひいたのかな?後でお見舞いでも行こうよ。」
「うん、そうね。じゃあさ、何か買って行った方がいいわね。フルーツだと俗っぽいし、ケーキもなんだしね・・・うーん」
「和広君も当然行くでしょ?(その為に捕まえたんだから)彼女何が好物だっけ?」
「え?今何か言った?」
彼は何やらぼうっとしていたのか、私達の話を聞いていなかったようでした。
「何をぼぉっとしてるの?あなたの彼女でしょ?心配しないの?」
彼は何やら明らかに動揺した仕種を見せ、慌てて取り繕う様に言葉を吐き出し・・・そう、まさにそういう形容がぴったし来るような感じで言いました。
「ああ、あいつね・・・そ、そうそう、実は今実家の方に里帰りしてるんだ。何かあったらしくて・・・はっはっは。」
「何だ、和広君なんだかんだ言っても知ってるんじゃ・・・ちょっと、どうしてそんな事思い出さないのよ!普通そんな事忘れる?」
「ごめんごめん、ちょっとボォッとしててね・・」
そう言って手で頭を掻いて誤魔化そうとしました。それを追求してやろうと思ったのですが、その前に景子がツイと疑問を口に出しました。
「ねぇ、その手どうしたの?包帯なんか巻いちゃってさ。」
その質問に彼の体が一瞬硬直した様に見えたのは私だけだったのでしょうか?それに顔色が真っ青になったような気がしたのも。もしかしたら単なる私の気のせいかも知れませんが。
「あ、ああ、これね。近所の猫に引っ掻かれてね、化膿するとヤバイからこうしてるんだ。どうも猫に嫌われてるみたいだ。」
「あらぁ?友子は大の猫好きよ。そんなことじゃあ嫌われるわよ。」
「いやぁ、実はそれで困ってるんだ。彩ちゃん良い解決方法知らない?」
知るかぁ、そんなもん!要はあんたの問題でしょうが、とは口が裂けても言えませんでしたが、なんぞあったら今度は言うかもしれないなぁとは思いました。
その私の沈黙をどう捕らえたのかは知りませんが、
「まぁいいや。そのうちなんとかなるだろぉーぅうっと。」
そういって席を立ち、折角連れ込んだ食堂から逃げ出してしまいました。後に残された私達2人は、
「何か、やる気なくなったね。」
などともっともらしい理由をつけ、講義を自主休講とし、お茶なんぞを飲んでおりました。
(この状態、コーラだったらまずくて絶対飲めないわね。)
などとぼんやりしていた私は、どこからどう出たのかこう提案しました。
「こんなとこにいたって知れてるし、うちに来る?」
やはり何もやる気が起こっていなかった景子は、一も二もなく賛成したのでした。

 「あれ?」
私の部屋で二人して、途中で買ってきたアップルパイやトルテでお茶にしていた私の頭の中に先程の和広君の話が思い出され、その一部がクエスチョンマークの大群となって、私の思考回路(そんな上等なものかどうかは知らないが)をうめつくしました。
「どしたの?」
そう尋ねた景子に、今頭の中を飛びまわっているものを打ち明けようかどうか迷いましたが、まぁ別に害があるわけじゃなし、という結論に達して、こそっと囁くように言いました。
「うん、じゃあ今ロデムはどうしてるんだろう?って思ったの。」一瞬彼女は何を言われたのかわからなかったらしく、しばらく考え込んでいましたが、どうもさっきの話の続きだと思い到ったらしく、やがてその目の中に理解の色が広がりました。
「ああ、彼女の飼ってた猫?」
「うん、いつもは預けに来るんだけど・・・・・」
彼女の飼っている瞳が緑色の黒猫は、何かのアニメの影響でもあったのでしょうか、”ロデム”という名前でした。そして実家が猫嫌いの彼女は、まさかロデムを一緒に連れて帰る訳にもいかず、いつもは私が預かったりしていました。
「どこに預けられたのかわからないけどさ、あの猫相手にするのって大変よぉ。なんてっても友子の猫好きは定評があるし、わがままに育てられてるから友子以外の人間の言う事なんて絶対にって言ってもいいほど、聞かないもんね。あの猫扱えるの、彼女以外は私くらいだったもん。」
「へぇ、大変なんだ・・・」
そう景子が相槌を打った途端、隣の家からけたたましい悲鳴ともつかぬ何かが聞こえてきました。
「な、何、あれ?」
うろたえる景子を落ち着けながら、私は一切を無視していました。すると景子の方も原因に思いあたったらしく、
「ああ、あれね。」
と言ったきり、声をひそめました。
『あなた一体何こぼしたの?!え?絵具?まったくもう、またクリーニングに出さなきゃならないじゃないの。いい加減にして欲しいわ・・・』
「どうやら今度は絵具らしいね。」
景子が囁くようにして言いました。私は顔をしかめたままコクンと頷き、もう冷めてしまって湯気も立っていないティーカップをくちもとに運びました。
「お隣さんて、なんだったっけ?」
「さぁ、何にしても怪しげな新興宗教だったって事は覚えてるけど、考えたくもないわ。たしか友子もかなりうんざり来てたみたいよ。」
そう、何回も何回も家に勧誘に来てねっっ!という事は言いませんでしたが。
「あたしそろそろ帰るわ。」
「そう?じゃあその辺まで送って行くわ。」
私たちはテーブルの上の片づけもそこそこに、玄関まで行き、家の鍵をキチンと閉めて、エレベーターホールの方へ向かって歩いて行きました。勿論友子の家の前を通って。
と、その時、不意に何かの声が聞こえたような感じがして、私はその場に立ち止まりました。その私の様子に気付いたのでしょう、景子の方も同じ様に立ち止まっていました。
「どうかしたの?」
「ねぇ、何か猫の鳴き声しない?」
私がそう言うと、景子の方も何やら思いたったように、聞き耳を立てていましたが、時間にしてそう、二・三分も経ったでしょうか、じっと耳を澄ましていた彼女は
「うん、今聞こえた。あれってさ、もしかしてロデム?」
「みたい・・・ちょっと自信ないけど・・・」
「もしかしたらさ、友子帰ってきてるのかな?」
「さぁ・・」
(後で和広君に聞いてみましょうかね、友子はいつ頃帰ってくるのか。)

 「あれぇ?なんでこんなとこに黄色いしみが出来てるわけ?」
景子を送って部屋に戻ってみると、カーペットの上に大きな黄色いしみが出来ていました。なんか黄色いものでもこぼしたかしら?ううん、お隣さんみたいに絵具は使ってないし、子どもがいてジュースをこぼしたわけでもないから・・・はて?一体何でまた・・?でも・・・
「いずれにせよクリーニングに出さなきゃならないわけだ、うんうん。でもこれでこの辺一帯みんなカーペットのクリーニングね。これじゃ儲かってしょうがないわけだ、クリーニング屋さんが。」
私はクリーニングに出さなければいけないものを取りまとめはじめました。
「ええと、まずこのカーペットでしょう。あのブラウスにブレザー。それから、あ、そうそう、テーブルクロス。」
でも何がついたんだろ、このテーブルクロスにしろカーペットにしろ・・・緑色のものと黄色いものね、それこそ絵具くらいしかないはずだけど。こんなに頻繁にクリーニングに出されたら、向こうも大変だろうな。そのうち友子んとこも御世話になったりして・・・としたら、彼女の所は何色かしら?うちが黄色と緑、お隣が青、その向こうは紫だったかしら?それでもって反対側のお隣さんはオレンジだったから橙、じゃあその向こうだからそうね・・・並べたら丁度虹みたいだし、赤かしらね。そしたらトマトジュースか。ドラキュラの好物ね。あれ?あれは血だったかな?
その時不意に嫌な予感がしました。そう言えばこの黄色いしみ、人がたに見えない事もないわね。もし友子の部屋にこれと同じ形をした赤いしみが広がっているとしたら・・・。私は頭の中のビジョンを振り切りました。それはあまりにも生々しく、正視出来ない程恐ろしい光景でした。
(明日になれば学校に来るわよ。ロデムが中にいるんだもん。)

 が、その期待が裏切られる事になったのはその日の夜でした。ゴミを夜のうちに出そうと思い部屋を出た私の視界に、黒くて動くものが映りました。それは友子の部屋の中に入ろうとしていました、こっそりと。私の口からついうっかりと大きな声が出てしまいました。
「そこで何やってるの?!」
人影はビクッと一瞬緊張し、ぎこちなく立ち上がりました。その姿は私も知っている人の姿をしていました。
「何だ、和広君じゃない。そうそう、友子帰ってきてるみたいよ、ロデムの鳴き声が聞こえてたから。」
それを聞いた彼の顔が恐怖に歪むのを私は見逃しませんでした。何か恐ろしいものを見るようなその目も。
「ね、何かあったの?友子のとこに遊びにきたんでしょう?大丈夫、内緒にしといてあげるから。」
そう言いましたが、彼は表情をさっきのまま張りつかせて、口をぱくぱくさせているだけでした。ここまでくれば何か変だという事にいやが応でも気が付きます。私は一応助け船を出しました。
「どうしたの、入らないの?こんなとこにつっ立ってたら怪しまれるわよ。どうせ鍵持ってんでしょう。何ならチャイム鳴らしてあげましょうか?」
「俺・・・」
彼はか細い、泣くような声でやっとそれだけ言いました。
「え、何?」
「俺、友子殺しちまった・・・・」
ヘヘヘヘヘ、彼はどこか飛んでしまったらしく、力なく笑いました。笑い続けました。いつまでも、いつまでも。
(俺、友子殺しちまった おれ、ともこころしちまった オレ、トモココロシチマッタ)
その言葉を理解するのに一体どれぐらいかかったでしょうか?すでに目の前の彼は放心状態に陥って、おそらく自分が今何をしているのか理解していなかったでしょう。
「あ、あいつが悪いんだよう。ガキが出来たなんて言い出すから・・・・・下ろせって言ったのに聞かなかったから・・・・・へへへ、悪いな友子、ごねんよ友子、そうさお前が、お前が・・・・クックック・・・・」
その時の彼の姿はみじめそのものでした。ぺこつきバッタって知ってますか?いつも誰かにぺこぺこ頭を下げている、したくもないのにやらされて、そのうち何の抵抗もなく、まるで条件反射のようになってしまう・・・丁度そんな感じでした。でも本人はそれを自覚していないのでしょう、何をやっているのかも含めて。
私はなんか、怒る気力も何も失せてしまって、いいしれぬ脱力感にさいなまれました。でも人間というのは不思議なものですね、そんな状態でもどこかしらはしっかりとしていて、この言葉だけははっきりと私の口をついて現れました。
「お願い、友子の事をかわいそうに思うなら・・今でも、少しでも愛しているなら、自首して・・・お願い、彼女のために・・・」
こんな台詞は景子の為にあるようなものね。二度とこんなの言いたくないわ。どうやらどこかに羞恥心だけは残っていたようでした。
周りが騒がしくなってきました。どうやら騒ぐをききつけた近所の人達が起きだしてきたようでした。

 パトカーがやって来ました。赤いランプを火のように灯して、まるで時代劇に出てくる江戸時代の奉行所の役人みたく、それはたくさん、たくさん。
それにつられて、やじうまもたくさん、たくさん・・・
和広君は一応という事で手錠をかけられ、現場検証に付き合わされる事になりました。が、こう言っていやがり続けました。
「いやだ!行きたくないっ!あそこにはロデムが待ってる・・・・た、頼むよ、俺殺されちまうよ!」
彼は暴れましたが、警官達に抑えこまれ、恐怖に顔を引きつらせながら、部屋の中、彼にとっては見慣れたはずの部屋の中に連れ込まれました。その脅えようは尋常なものではありませんでした。私達はその時に気が付くべきだったのです。彼の手の包帯の意味を。
扉を開けると中は埃臭い匂いと共に、生臭い様な血の匂いがこもっていました。警官達はすぐに中の状態をチェックし始め、無神経にずんずんと土足であがっていきました。そして彼に言われたところへ向かった私達の目の前に、もう固まって黒くなった血が、黄色いカーペットの上に水溜まりの様に染みを形作り、その中心に黒くなってしまった傷口を持ち、青ざめた顔をした友子が倒れていました。
彼女の死体に警官達が近づいた時、さらなる惨劇は起こりました。何か黒いものが私達の視界をスッと横切り、あっと思った次の瞬間、後ろで
「ギャッ!」
という男の人の悲鳴が巻き起こりました。あわてて振り向いたその目の中に、何か鋭い刃物状の物で首筋を切り裂かれ、トマトの様に真っ赤な鮮血を吹いている和広君の姿が映りました。そして彼の首を切った犯人は、体中を真っ赤に染めて、悠々と毛づくろいをしていました。彼女の飼っていた黒猫のロデムが。
彼女はまるで主人の仇を討ったかのように、緑色した瞳を細め、一言
「にゃぁーおぉぉ」
と鳴きました。私の方を向いて、警官達が騒いでいる中を、それは静かに、しずかに、し・ず・か・に・・・・・・・・・・・・・・あくまでも静かに。そう、死んだ主人を弔うかのように・・・
私は彼女を抱き上げました、服が血で汚れるのもかまわず。そして警官達に渡すのを断固として拒否し、外に連れ出しました。そして決心したのです。
私は彼女を、うちで飼う事にしました。今となっては彼女を扱えるのは私だけでしょうから・・・
 

私だって・・・

PART1

 俺は宇宙の飛ばし屋。スピードこそが命。
何人たりとも俺の前を行く事は許されない。
何人たりとも俺が後ろに引き下がる事はない。
アイ アム ア チャンピオン!
見よ!俺のテクニック。俺のスピード。俺のパワー!全てが超一流、宇宙で最高!
ある日、前方の遥か遠くに俺は”ライバル”を見つけた。そいつもなかなかの飛ばし屋だった。何しろこの俺がどれだけ飛ばしても、なかなか距離が縮まった様には見えないのだ。それでも宇宙一の飛ばし屋を自称している俺としては、そんな事は許せない。更にスピードを上げ、そいつに何とか追いつこうとした。
そしてその甲斐あって、かなりの時間がかかったが、そいつに追いつく事が出来た。が、そこは既に急カーブに差し掛かっていた。俺はそいつを抜かす事は叶ったが、結局は曲がり切れず、ガードレールにぶち当たる羽目になってしまった。

PART2

 HEY BABY!俺に惚れちゃ駄目だぜ。何ちゃってね、お前に惚れてるのは本当は俺の方なんだ。でもよぉ、俺だけじゃねぇってお前は知ってるんだよな。お前の周りにゃ俺と同じ目的の奴が二〇人近くもいるんだから。頼むよ、一度でいいからこっちを向いておくれ。そん時ゃ俺は天にも昇る気分だぜ。な、一遍だけでいいんだ。
え?何だって、本当に俺なんかでいいのかい?そんなぁ、照れちまうぜ。はっはっは、そんなに強く引っ張るなよ、壊れちまうよ。お、おい、本当にそんなに強く引っ張るなって、痛いじゃねぇか。痛い痛い痛い、ほ、本当に腕が千切れそうだ。おいおい、だからって足ならいいわけじゃないんだぜ。いてっ、イテッ!痛い痛いッ!や、やめてくれ~ッ!

PART3

 「いやぁ~、今年の天文学はイベントが多いですねぇ、教授。」
「うむ、確かにな。小惑星が二つもニアミスした挙げ句、そのうち一つは月に衝突するわ、木星の衛星が一つ、重力圏内に引き込まれて崩壊するわ・・・ところで君、試験の問題はもう決まってたかね?何、未だ決まってない?そうかそうか、ではあの崩壊した衛星が輪になるまでの時間を計算させる、というのもなかなか面白そうだな。よし、後期の試験問題はそれだ!しっかり勉強しておきたまえ。わかったね、K君。」
 

あのねぇ・・・

 目が覚めた。
そこは暗く、何も視界には入って来なさそうな寂れた空間だった。
周りをキョロキョロと見回してみたが、やはり第一印象に違えずそこには何も見出せなかった。
と、不意に若い女の泣き声-それも啜り泣き-が耳に飛び込んできた。
(誰が泣かせたんだろう?それよりも何処にいるんだろう?)
そんな事を考えながらもう一度周囲を丹念に、そして注意深く見回してみると、さっきも見て探した筈の真後ろに、着物を着、頭を結い上げて簪を刺している若い女の姿があった。うずくまり、両手で顔を覆って泣いているその姿は、おそらく誰が見ても
「どうしたんですか?」
若しくは
「何を泣いているんですか?」
という風な声を掛けずにはいられない様な雰囲気を持っていた。
(一体どうしたんだろう?)
俺は先程も出てきた極ありきたりの、そして完全に使い古された陳腐な言葉を脳裏に浮かべながら、彼女の肩を叩きながら声を掛けてみた。
「もしもしお嬢さん、一体こんな所で何を泣いていらっしゃるんですか?」
すると彼女は顔から手を離し、こみあげて来ものを抑え、何度もしゃくりあげながらこう言った。
「お、おとっつぁんが・・殺されて・しまったん・・・です。」

がっちょおぉーん!
てな風に俺は驚いた。何処のどいつがそんな酷い事をしたのか!こんなに若く可愛い娘に・・・。
「ゆるせん!」
自然にそういう怒りの言葉が口から発せられていた。俺の心からの怒りがはっきりと伝わったのか、彼女はこちらに顔を向けた。その顔はやはり想像を裏切る事なく大変美しいものだった。やはりこういう美少女(?)は畳の上に少し正座を崩して、そんでもって小さい弟や妹が・・・・あれ?
「姉ちゃんかわいそう。」
「為五郎、それは言わない約束でしょう。」
(いつの間に・・・)
見ると彼女と俺しかいなかった、しかも何もない空間だった筈の周りが、昔風の時代劇でお馴染みの長屋みたくなっていた。おまけに小さい、五・六才の弟と三・四才の妹とがいた。(顔はどう見ても五十六才と三十四才だったが)
(この世の中には説明不可能な事が多々ある。)
そう思っていると、俺の顔をじっと見ていた彼女の表情が、ぐっと険しいものになった。そしておもむろに口を開き、
「お、お父っつぁんの敵。」
と叫んだかと思うと、すっくと立ち上がり、どこからともなくひっぱり出した短刀を振りかざして、俺に切りかかってきた。俺は
「何かの間違いだ!」
と叫んだが、彼女は
「お、お父っつぁんの敵!」
の一点張り。俺は
「何かの間違いだっっ!」
の一点張り。しかも彼女は短刀で突きかかってくる一点張りで、俺は避けてばかりの以下同文。しかしなにしろただでさえ狭い長屋の一室、逃げ続けるにも限界がある。そのうち逃げきれなくなり、部屋の片隅に追い詰められるのは必至。しかも俺はフェミニストだから女性には絶対に手をあげないというのをモットーとしている。
(こ、このままではヤバイ。ここはやっぱり逃げの一手あるのみ。)
障子を突き破って表へ転がり出ると、そこはいかにも何か出そうな陰気な、そして生温かい風の吹く、薄暗い墓場だった。何でこんな所にばっかり縁があるのだろうか?などと考えながら、しかしまだ彼女が追っ掛けて来るので必死になって逃げた。不思議な事に、”何故部屋の外が墓場なのか?”という問いは浮かばなかった。すると目の前に提灯を持った一団がいて、俺の走る予定の道を完全に塞いでいた。
「どぉけどけどけどけどけぇーっ!」
俺はそうわめき散らしながら集団に突っ込んだ。が・・・そのつもりだったのだが、彼らに手が触れる寸前、俺の手は何か妙な気配でも感じたのか、あらぬ方向へと飛んでいた。
でもそれは正解だったのだ。なぜなら、振り向いた男の内の一人には顔がなかった。又、その隣に日傘を(夜なのに)さしていた女性は首が異様に長かったし、三つ目に一つ目もそこにはいたし、傘は下駄を履いてるし、とどめに彼らの連れている馬は首だけだった。
「な、なんだ?おまえら・・・・・」
舌が回らなかった。思考が麻痺していた。頭では逃げる事を考えているのに、足が全く言う事を聞かない。その上、後ろからは
「お父っつぁんのぉーっ敵いぃーっっ!」
という声が近づいて来る。このまま行けば事態は完璧なまで典型的な”絶体絶命”ってなやつになる。俺は意を決して彼らの間―俺の唯一の逃げ道に逃げ込んだ。事態が更に悪くなっていくとも知らずに・・・。
俺が走り抜ける後から後から墓石が倒れ、もっと醜悪な妖怪や化け物、もののけ、物体Xにエイリアン達が飛び出しては俺を追い掛け始めた。その後方には
”ニッタァー”
と笑った先程の連中が立ってこちらを見、少女が声を張り上げて追っ掛けていた。

 あれから一体何時間たったのだろうか?俺はまだ走っていた。予告通りさらに悪くなった状況の下で。なんと言ってもあれから追手の増えること増えること、騎馬隊、肉食恐竜、インディアン、翼の日の丸も鮮やかな大日本帝国陸軍最強の戦闘機、四式戦”疾風”、スターウォーズでお馴染みの宇宙戦闘機、今時テレビの子ども向け番組にも出て来ない様な派手なデザインの巨大ロボット群、そしてさらに、特撮戦隊ものに出てくる下っ端戦闘員を甲板の上に整列させた、空一面を圧する超巨大宇宙戦艦”まぐろず”etcetc・・まだ核ミサイルを搭載したF―十五イーグルや、F―十六ファイティング・ファルコンがいないだけまし、といった状況だった。核ミサイルなんぞ発射された日には、いくらなんでも逃げきれる筈がないからだ。
だからと言ってこの俺が何もせず逃げまわっていただけ、と思われては困る。いくら鈍い俺でもここまでくればこれが夢である事ぐらいさっしがついていた。ので具体的にどうしたかと言うと、
「夢ならば自分の思い描いた事が実現しても不思議ではない!」
という理論(?)を使い、
ある時は手榴弾、マシンガンにバズーカ砲を駆使して追って来る敵を粉砕し、
またある時は聖剣”キッチャウンデス”と聖楯”マモルンデス”などのアイテムで妖怪変化共を蹴散らし、
そしてまたある時は「天地爆裂」で巨大ロボットをぶっとばし、
そしてまたまたある時は衝撃波や電撃を放ち、空をマッハ二で飛んで戦闘機をうるさいハエよろしく叩き落としてきたのだ。
とはいえ何と言っても多勢に無勢、そこで今は必殺の一撃を与える事の出来る位置まで戦術的撤退をしている最中なのだ。
駄菓子菓子いや、だがしかし、それも遂に終わる時がやって来た。突然俺の目の前に現れた崖の上には、俺の頼もしい仲間である4人が立っていた。それを見つけた敵が、俺を何としても止めようと突進して来たが、寸前のところでそれを”加速装置”を使ってかわすと、彼らの真ん中に立ち、言った。
「待たせたな、みんな。よし、行くぞ!」
「オーッ!ダイキョー・・じゃなくて変身!」
俺たち五人はまばゆいばかりの光に包まれ、そして変身した。
「スペオペ・レッド!」
「ハード・ブラック!」
「サイバー・ブルー!」
「ニューウェーブ・イエロー!」
「ファンタジー・ピンク!」
「我等、空想戦隊エスエフ5!」

どっかぁぁーんんっ!
見事な迄にポーズが決まった。一回でいいからこんな事をやってみたかったんだよなぁ、崖の上でポーズを決めて、その後飛び降りる、これがヒーローの醍醐味だよなぁ・・ああ、生きてて良かった、などと思いながら俺は今迄追って来ていた連中を倒していった。
アイテムは”RIGHTサーベル”。襲い来る妖怪共を右に左にとバッサバッサとなぎ倒し、アンドロイド&ロボットのタッグコンビを一刀の下に切り伏せと、正に獅子奮迅の大活躍。俺の右隣りではブラックが”理論固め”でサイボーグを傷めつけ、左隣りではピンクが”魔法の杖”を振るって猛獣を子豚に変えていた。そして首なし美女死体には、
「合体、マーカライト・バズーカ!発射!!」
とよくある話の必殺秘密最終兵器で止めを刺した。
「おのれおのれ、お父っつぁんの敵。いでよ!ハチャメチャ獣、オタクコミケ!!”」
俺をしつこく追って来ていた少女がそう叫ぶと、地面が波打った後大きな地割れを生じ、その中から巨大なハチャメチャ獣が現れた。それを見た俺は少しも慌てる事なく、仲間達を振り返ってこう言った。
「よし、みんな、コテンロボに搭乗だ!」
「オーッ!」
その後は言わなくても分かってもらえると思う。ちゃんと一度は押され気味を演出し、続いて反撃へのお馴染みの連続パターン!遂にハチャメチャ獣はヨロヨロ、必殺技の出番となった。
「行くぞ!空想剣、異次元ブラックホール返しっ!!!」

ちゅっどーんんっっ!
「おのれおのれおのれ、お父っつぁんの敵。この次こそは必ず仇を打ってみせるからな!」
再び盛大な爆発が起こり、その煙が晴れた時
にはもうその姿はそこにはなかった。

 平和がやって来た。だが、父の復讐に燃える美少女がいる限り俺には休む暇などないのだ。ああ、明日も予備校が待っている。頑張れ俺!俺こそは明日のヒーロー、世界の平和は俺の双肩に!

 

 


性格検査結果

 使用したテストの方式・・・催眠イメージ・テスト

 検査の結果、貴方は非常に特異な思考の持ち主であると
いう事が判明致しました。大阪教育大学入学の暁には、是非SF研究会に入部する事をお勧め致します。

                 09,12,1989
大阪教育大学保健管理センター

 

島流し片道切符 ~イマジノ・スコープ~

 おや、あなた見かけない顔ですね。ああ成程、今日着いたばかりですか、道理で・・・。私ですか?そうですね、もうかれこれ3週間ぐらいになるんじゃないかな。まあここでは日付けなんて関係ありませんがね。お互いこの世界へ来た者同士、どうです、一つ身の上話でもしませんか?ここでは唯一の娯楽ですよ。とてもそんな気分じゃない?じゃあ聞くだけでも聞いて下さい。

 私はね、平凡な公務員だったんです。市役所の民生課に勤務していました。名前ですか、そんなものはここではどうでもいいものですよ。家族?残念ながら縁がなくてね、この年で独身なんです。
そんな生活の中で楽しみと言えば、テレビのサスペンスドラマと好きな球団の勝った記事が載ってるスポーツ新聞、それとあいつぐらいでしたなぁ。この世界へ来たぐらいだからあなたもそうだったんでしょう?やっぱりね。
あなたは何をなさってたんです?ああ、学生さんですか。人生も半ばを過ぎた私ならともかく、まだまだお若いのに・・・お気の毒です。
えーっと、どこまで話しましたっけ?ああ、娯楽までですか。年をとるとどうも物覚えが悪くて・・・。そう、あいつは私を非常に楽しませてくれました。腹の立った時にはなだめてくれましたし、悲しい時にはなぐさめてくれ、嬉しい時には更に喜ばせてもくれました。でもどうやら、そうこうしているうちにあいつの虜になってたみたいですね。朝出かける前に眺め、晩帰って来てから眺め、寝る前にもう一度眺め、一日に三度あいつを眺めるのが日課になってました。そう考えてみるとどうです、確かに私達をここへ追いやった張本人ではあるけれども、なんとなく懐かしく親しみがわいてくるでしょう。え、全然だ?まあ昨日来たばかりではね・・・・でもそのうちにそう思う様になりますよ。私を含め、ここにいる全員がそうなんですから。
しかし、とにかくあいつは素晴らしかった。その都度変わる白黒の模様は山々の様にも砂丘の様にも、更には霧深い谷の様にも見え、しかも同じ形をしたものはただの一つもない!気泡と砂を使った大きく、そして静かな脈動感、刻々と変化する風景、砂を使った最高の人工風景でしたよ。そういう意味ではあいつは正に名前の通りのものでした。

 ん?また砂が降ってきたようですよ。ここでは当たり前の事でしてね。生き埋めにならないかって?大丈夫ですよ。私もここへ来た当初はそう思ったんですが、不思議な事に常に地面の上に立っていることが出来て、決して埋まることはないんです。どうやら砂の奴は我々の体をすり抜けるみたいでしてね。まあ気味悪がるのも無理はありませんが・・・そう、すぐに慣れますよ。
話の続きをしようって?そうですね、確かいつもあいつを眺めていたところまででしたね。どうも最近物忘れがひどくて・・・。まあ、そうこうしているうちに、私は三日間程出張に出かける事になりまして・・・ええ、そうなんです。行きがけにいつも通りあいつを眺め、「行って来るよ」と声をかけてから出かけたんですが・・・・・結局その日は帰らない、そして次の日も帰って来ない。おそらく見捨てられたと思ったんでしょうね。無事仕事を終えて家に帰ってみると、あなたもわかるでしょう、ドアを開けると中は一面灰色なんです。恐る恐る入ってみると、何やら一つだけ光っているものがある。そう、よく見るとあいつだったんです。何というか、私を恨むような感じでじぃーっと見ているみたいなんです。一応いつも通り「ただいま」と声をかけても変化はなし。薄気味悪くなって思わず声をあげかけた途端、そう!そうですよ、足下がいきなり消えてしまったみたいに・・・気が付いたらこの世界でした。おそらくあいつの世界に取り込まれてしまったんでしょうね。それからは・・・・・そうですね、別に言う必要もないでしょう。あなたもこれから経験するんですから・・・・・。

 ここから出ることは出来ないかって?さあ、今まで出て行けた人は一人もいないと思いますよ。でもね、時々行方不明になる人がいるらしいんですよ。結構古参の人達らしいんですがね。
その話が出ると皆は、怒りがおさまったので帰してもらったんだと希望を持ちますがね、中には単にこの世界は広いからどこかで彷徨っているんだって言う人もいましてね。ここでは腹も減らないから死んじゃあいないでしょうが。しかしその中でもね、ほら、あそこに座っているあの男。彼に言わせりゃ、一定期間この世界にいた人間は砂雨の時に砂に同化するんだってことです。この世界へ来る事はそれ自体、今までいた世界からの片道切符で、ここに来てしまえば残りの人生なんて・・・・・はっきり言えば死か消滅への片道切符らしいですよ。
でもね、人間てのは希望を持ちたがるもので、彼はかなりの反感をかってますよ。あなたもですか?まあまあ、そう怒らないで、何と言っても別に証拠はありませんし・・・。

 この辺で私の話は終わりです。さあ、今度はあなたの話を・・・そうですか、まだ話したくありませんか。ま、いいでしょう。そのうち聞かせて下さい。

おやぁ、それはそうと、あなたの後輩がもうやって来たようですよ。さあ皆さん!次は誰が身の上話をしますか?え?楽しみは後にとっておきたいって?そうですか、結局は一緒なのになあ。それでは私からしましょうか。何しろここでは唯一の娯楽なんですから・・・・・・・
 

ケサランパサラン

そいつは不思議なものの様に僕の目には映った。白くてふわふわした毛玉の様なもの。小さくて手の平の上で転げ回る不思議なもの。人知れず、どのようにかして仲間を増やすもの。何を食べているのかは誰も知らない、どういった行動を行うかも全くわからない、全てが謎に包まれている生き物の様な奴。
(おなかがすかないのかな?)
(喉は乾かないのかな?)
(一日中じっとしてて、退屈しないかな?)
子どもながらにそんな事を考えていた様な記憶が、十数年経った今でも残っている。
当時はだまテレビゲームやファミコンなんて気の効いたものはなく、子ども達は自分で自分の好奇心を満たすものを求めては満足するという生活を送っていた。
―純真な子ども―そういった形容があてはまるかも知れない。しかし、僕自身がそうだったかどうかは、肯定するのははばかれるし、否定する程捨ててはいないために、何とも言い様がない。
とにかくそいつは不思議な奴だった。そいつは初めて知ったのは、おそらく何かのテレビ番組だったと思う。どうやら友達も皆、その番組を見ていたらしく、翌日にはそいつの話題でクラスは持ち切りになり、その後しばらくは僕達の話題のナンバーワンだったと思う。
はや
さらに、不思議なもの、訳のわからないものだったそいつを使った言葉遊びも流行った。
”全然ケサランパサランや”
意味がわからない時にこの言葉を使ったのはおそらく母親だったのだと思う。
そうそいつは”ケサランパサラン”と呼ばれていた。

朝午前八時三十八分、角のコンビニエンスストアを横目に見ながらそこを曲がると、僕の通うS大が見えてくる。冬のさなかで吐く息が白い中を、僕はいつも自転車で通学する事にしている。家からの距離を考えると、昨今の学生ならばまずバス通学を選ぶであろう距離であるが、
「バス賃がもったいない。」
という貧乏根性丸出しの言葉一つで、その可能性を一蹴してしまった僕は、毎朝少々古ぼけてキコキコと軋む音をたてながら走る自転車を漕いでいる。
(そろそろ油を差さなきゃいけないな。)
そんな事をぼんやりと考えながら正門をくぐると、左に曲がってすぐの所にある自転車置き場に駐輪する。はずした鍵を投げ上げては手で受け止めして、弄びながら学部の研究室へ向かう。
(今日は午前中だけだったな。)
そう思うと早く帰れるという思いで心が軽くなる。こんな日だと授業なんぞサボって、(特に今日の様に天気の良い日だと)どこかに遊びに行く(彼又は彼女と一緒に)という学生の多い近頃では、一般に学生というのは暇な職業だと思われがちである。が、実際はというとそうでない学生もいる訳で、かく言う僕も後者の”貧乏暇なし”を絵に描いて額縁をつけた様な男だと、よく悪友達に言われる。という訳だから世の学生諸君、あまり悪い噂をたてない様にお願いしたい。

研究室に顔を出し、”帰宅”という欄にかかっていた自分の名札を”講義中”の欄に移し、教授はまだ来ていない時間のはずなので、卒論のために徹夜を敢行したらしい勇敢な四回生に、
「おはよう」
とあいさつをすると、そのまま講義室に向かった。今日の一コマ目は”遺伝子学”のはずだ。
ロッカーから”遺伝子学”の教科書を取り出すと、研究室の真向かいにある講義室へと足を運ぶ。するとすでに悪友が二人程姿を見せていた。どうやら僕を待っていたらしい。
「よお京二、お前まだ例の装置造ってんだって?」
「そうそう、良美嬢『最近全然自分の方を向いてくれないの』って怒ってたぞ。」
良美というのは僕が現在つきあっている娘で、活発だがその分口もうるさいという女性だった。フルネームは安岡良美といい、目の前にいる二人の悪友、尾崎信彦・山本秀勝の両人に言わせれば、
「お前にゃもったいないぐらいの美人」
なのだそうだ。
だが、良美本人はというと、その様な意識は別に持っておらず、むしろ、そんな彼女のさっぱりとした性格が僕は好きだった。
何かに対してこだわる訳でもなく、自分の長所を自慢したりはせず、終始控え目でいてそれで別の意味で活発な娘、そんな彼女は陰気な僕となぜか気が合い、僕も彼女もお互いに、相手のそんな所が好きなのだと言う。確かに周囲の人間にしてみれば僕ら二人は何かと目立ち、奇異な人間に映るらしい。

一コマ終了のチャイムが鳴った。僕も隣りの講義室で受けていた悪友二人もこれからそれぞれの研究室においてゼミとなる。僕ら三人はS大の大学院生で、共に大学いや、高校からのくされ縁だった。元々はと言えば理系志望のコンピューター好きが集まってワイワイやっていたのが最初だから、全員が根暗の様に思われがちだが別段そういう訳でもないとは言え、妙な情熱の持ち主であった事は間違いないので、院まで不思議と縁があった訳だが、僕は理学部生物学科で遺伝子研究室に入り、あとの二人は工学部電子工学科であった。他にも――不幸な事に――高校からのくされ縁の者は数人いるのだが、今日は”サボった”らしい。もっとも、ゼミにはいくらなんでも出席しているだろうが。
悪友と後程一緒に昼飯を食う約束をしてから別れると、我が愛すべき教官、赤沢平八郎教授はすでに研究室にいらっしゃっていた。大変貴重な昭和元年生まれにして、頑固・厳格・質素という戦前教育の影響から来る三本柱に、度を超した現実主義というもう一本の柱を加えて、我々は”元帥殿の性格四天王”と呼びならわしている。ちなみに元帥というのは「東郷平八郎旧帝国海軍元帥」と同じ名前であることに由来する。過去「元帥殿」の単位を取得するために涙を流した学生の数は数知れぬと言われる。
「おい川田、お前まだ例の機械を造っているのか?」
「はい。」
我が元帥殿は僕の造っている物に大変興味を持っていた。もちろん彼は現実主義者であるため、その興味は悪い方向にではあったが。
「いいか川田、お前の言ってるそんな機械は絶対にできっこない。少なくとも現在の技術ではな。悪い事は言わん、そんな機械の事なんぞすっぱり忘れて専門の研究に打ち込め。その方がお前の能力を生かせること確実だ、な。」
「ありがとうございます。」
僕は心からそう思い、その思いをそのまま言葉とした。だが、僕の考えはいかなる言葉でも変えることが出来なかった。
「ありがとうございます。でも折角ここまでやってきたんです。あと少しだけ頑張らせて下さい、もうすぐ完成するんです。」
しばらくの間、教授と睨み合った。そして後、おもむろに溜め息をついた。
「そうか、仕方がない。それまで言うならもう少しだけ待ってやろう。だが、自分に納得がいったら研究に打ち込むんだぞ。もちろん今まで以上にだ。」
(すみません、先生)
僕は教授の不機嫌な声を聞きながらそう思っていた。教授に対して悪い事をしているのは十分わかっていた。何しろ専門の研究そっちのけで、学校で暇な時には工学部の講義を聴き、研究室へおじゃまし、家に帰れば一日中飽きもせず装置を組み立てているのだから。
(デートの一回もまともにしてないもんな。これじゃ良美も怒る訳だ。)
横では赤沢教授が、
「ゼミを始めるぞ。」
の一声と共に、今日の発表者の確認と参考資料の配布を始めた。その面倒見のいい教授を尻目にして研究室を後にした。しかし、必修のゼミを見逃してくれるのは、僕の書くレポートが他学生のそれよりも群を抜いて評価される程のものだからである。もっとも、自分はそうは思ってはいないが。
そう、一度たりとも自慢した事は過去なかった。そえが一体どうしたというのだ?確かに僕のレポートは素晴らしいという批評を受けている。成程そうかも知れないが、単に消費活動であるにすぎず、別に何かを生産して社会の役に立っている訳ではない。あんなレポート一つよりも、町工場で造られるソケット一個の方がよほど値打ちがあるだろう。
そんな僕の考え方を”素直じゃない”と言う者が多い。では尋ねるが”素直”とは一体何なのか?いや、やめておこう。こんな事を議論しても得るものはないであろうから。

午前中を工学部の研究室を荒らしまわって過ごし、昼御飯を近くの喫茶店で終えて、電気関係の店でICチップなどをいくらか買った後真っ直ぐに家へ帰り、”研究室”と名付けた一室
で仕事の続きを始めた。
まず昨日までに配線の終わっている場所を確認し、配線途中及びこれから配線を接続する箇所を確認する。その後、白衣を着た上で帽子とマスクをつけ、ピンセットで作業を始める。最初のうちは慣れず、さらに一番の難関がすぐに控えていて大変だったが、今ではもう面倒な所は全く残っておらず、目をつぶってでも出来る程のものしかない。とはいえ、細かい作業であることには違いはないため、大体三十分に一回は目を休めないといけない。そして目を休め終わったらもう一度作業に取りかかる。
こうして、たった一人の肉親である妹―早苗―が作ってくれる晩御飯と風呂に入る時間を除いては、日によっては夜中三時ぐらいまで作業を続ける。そしてその間に学校へ行き、数本のレポートを書きあげる。それがもうここ数年の日課となっていた。
僕が作っているのは高性能のコンピューターだった。これまでにない大容量のメモリー、少々複雑な問題でも瞬間的に答えを出せるぐらいの演算速度、その他大きな解析能力など、数多くのものを僕はこいつに要求していた。従って従来の方式ではスピードが全くお話にもならない程遅く、仕方なしに一から全てを設計する事になってしまった。
作り始めた当初はそれでもこんな事になるとは露とも思わず、お陰でこの事に気付くまでに高価なコンピューターを数台無駄にしてしまった。今さらながらに勿体ない事をしたと思う。
一旦手を休めて瞼を閉じて目を押さえる。しばらくの間そのままの姿勢でじっとしておいて、目の疲れがとれたところで机の引き出しを開けた。いくつか箱が入っているその中から少し大きめのものを取り出すと蓋を開ける。すると中に白くフワフワしたものが三つ程入っていた。
「おや、また一匹増えたな。」
僕は一人ごちた。そう、それは正に”ケサランパサラン”だった。
僕がこいつを見つけたのは一年程前の事である。ある日タンスを整理していた時、端っこの方でシャツとシャツの間にはさまっていたそいつを偶然見つけたのである。最初は何かわからず、一度はゴミ箱に捨てようとしたのだが、その何かしら心細そうなものが一瞬何かを囁きかけて来た様な気がしてずっと大切にしまっておいたのである。もっともしばらくの間、そのまま忘れてしまっていたが。
次に見たのは6ヶ月後だった。この時もほんのたまたま開けてみたところを見つけた訳で、大きいのが一つに、子どもの様に小さいのが一つ。この時僕は昔テレビで見た”ケサランパサラン”という生き物を思い出した。
「あんなものは嘘っぱちだ。」
つい先日まで事あるごとにそう言っていたそいつが僕の目の前に出現したのである。
しばらく呆然と立ち尽くしていたのを思い出し、自分でもつくづく情けない事をしたものだと、くすっと笑った。今では毎日の様にそいつの姿を見ることにしているが、どうやらこいつは僕がしばらく見ていないうちに仲間を増やすらしい。
「お前な、たまには俺の目の前で分裂しような。ちょっと愛想が足りないぞ。」
少し笑いながらそう言うと、白いフワフワを手の平にのせて弄ぶように転がしてみると、やわらかくて気持ちの良い手ざわりが手の上に広がった。
僕は再びそいつを箱に戻し、机の上に置くと、作業を開始した。今日のノルマを果たすまではあとまだ5時間ぐらいはかかる計算になっていた。

「ねえ、少しは時間をあけてくれてもいいんじゃない?あまりにも冷たすぎるわよ。」
良美はそう言った。月に一度のデート、映画を見終えてから入った喫茶店である。
「そうかな、これでも結構気を使っているつもりなんだけど。」
「よく言うわ。電話をかけても『今は忙しいから後で』の一言でしょう。学校でだって一緒に帰ったことなんてここしばらくないし、大体今日のデートだってしぶしぶだったじゃない。いくら忙しくてもね、女の子にはもう少し気を使ってもきっとバチは当たらないと思うわよ。」
「成程ね・・・・」
彼女は文句の多い女性ではなかったが、ここしばらくの僕の行動にはいい加減腹が立ってきたらしい。ここまで言わせてしまった事を反省しながらも、今日帰ってから行う作業の手順が気になるのは、仕事が佳境に入り、もうすぐ完成するという意気込みからである事に間違いないだろう。
「悪い事をしているとは思っているんだ。でもね、もうすぐ完成するんだ。もう少しだけ、ほんのもう少しだけ待ってくれないかな?」
「もうここ二ヶ月の間ずっと同じ事をきいているわ。そんなにそれ、大切なものなの?」
「うん・・・」
気まずい沈黙が二人の周囲を取り囲んだ。長い間わがままを僕が言ってきた故の沈黙なので、僕の方から打ち破らなければならないのだが、いざとなるとね・・・・
(人間てのは全くうまく出来てるよな。)
「まあいいわ、今日のところは許してあげる。でもね、来月からは駄目よ。もうその頃には完成してるとは思うけど、いい加減こっちを振り向いてくれなきゃ愛想尽かしちゃうからね。」
「ああ、もちろんだよ。愛想尽かされちゃ、こっちもかなわない。」
肩をすくめておどけた素振りで言うと、この言葉が意外とうけた。さほど広くはない喫茶店の中に、二人のプッと吹き出した笑い声が響いた。寛大な彼女に感謝!

「お兄ちゃん、晩御飯出来たわよ!」
コンコンというノックの音に続いて聞こえた早苗の声に、
「今行く。」
という返事を返す。
五年前に両親を亡くしてからというもの、家事一切は皆妹が取りしきっていた。とは言っても妹も今や大学生、講義もあるため、家事は講義のない日か休講になった時に行うこととなる。そういう意味においては、何もしていない僕は非常に情けない限りだが、そのお陰で何から何までやらされる妹は将来いい嫁になれそうである。
僕はうきうきした気分で食事をしている。今まではいつできあがるかわからない装置のあがり具合にやきもきさせられたものだったが、それも今日で終わりだ。遂に完成だ!
早苗もそうやらこの気配を僕の感じから受け取ったようだった。
「良かったわね、兄さん。」
その一言を始めとして今日大学であったこと、最近の愉快な出来事を面白おかしくアレンジして聞かせてくれた。僕もその話にずっと聞き入っていた。ここしばらく世の中の動きに対してかなり鈍感になっていた僕には、そのうちの大半が耳新しいものだった。
(そうか、レーガンも遂に退陣か・・・)
(内閣の汚職?そんなのあったのか・・・)
(etc、etc・・・)
政治的な話題の他にも楽しい話もあり、久し振りに心の底から笑う事が出来た。こういったなごやかな雰囲気の食事は数ヶ月振りだったろう。

「なあケサパサ、遂に完成したぞ。僕はうれしいよ。そうか、お前も喜んでくれるのか、じゃあ一緒にこいつの働き振りを見ような。」
ケサランパサランのフワフワした毛の揺れ具合を喜んでくれているものと解釈して僕は言った。
ところがそこで一つ、ふと思いついた事があった。
(一、二、・・・おや、二匹しかいない。前に見た時は確か三匹いたはずだ。もう一匹はどこへ行った?)
僕はうろたえて、その付近を探しまわった。机の上をひっかきまわし、机を始めとする家具類の下をかがみ込んではのぞき込み、挙げ句の果てには引き出しの中さえもひっかき回してみた。そんな事はかれこれ三十分も続けたろうか。とうとう残りの一匹は見つける事が出来なかった。
「仕方がないな。なあお前たち、あとで残りの仲間にもどんな風だったか教えてやれよ、な?」
そう言うと電源のスイッチをONにし、これも苦労の結晶のディスクをセットする。プレシグナルが出て来た時点で、前々から準備していた問題をキーボードを使って打ち込む。
しばらくするとカタッカタッという柱時計の振り子の様な作動音がし、それが止むと同時に答えが表示された。その結果はそのままプリンターで打ち出される。
こんな事を十回程も繰り返しただろうか。もちろん段階を追って徐々に複雑な問題に変えていき、少なくとも今までのところは、それをパーフェクトにこなして来ている。まずは申し分ない処理演算能力を持っているという事が出来るだろう。
(頼もしい奴だ。こいつならいけるだろうな、十分に。)
そんな期待とも自信とも言えるものが湧いてきた。残る問題はあと一問だけ。こいつの解が得られれば、世界中を
”アッ!”
と言わせる事が出来るはずだ。
それは僕自身が考え出したもので、自分では”進化方程式”と呼びならわしていた。こいつをコンピューターに見つけさせ、特殊解を、いやゆくゆくは一般解を求めさせてやろうというものだった。
この方程式を使えば生物のこれからの進化過程の推測を示す事が出来るというしろ物だった。
もちろん教授は反対していた。”その様な解が存在するとは到底思えない”というのがその主張の根拠だった。だが僕はその考えにとりつかれていたのだろう。もしこいつが発表されれば生物学界だけでなく、世界中に大きな波紋を投げかけ、なおかつこいつの恩恵で遺伝子工学もかなりの発展を遂げ、おそらくは難病といわれていた病気のワクチンも続々と完成するだろうと見込んでいた。
かと言って地位や名誉を欲する気持ちはあまりない。これは嘘偽りのない気持ちである。皆が幸せに、生活に困る人がなくなればいい、そう思っての事だけだ。例えばボランティア活動をしている人々が今大勢いるが、彼らは地位や名誉とは言わないまでも、何かそういう、人間の俗物的な面の物を手に入れるためにやっているだろうか?否、そんなもののためにではないはずだ。その力の源となっているのは他人を思いやるいたわりの心であると思う。もしかしたらキリストもそんな人物の一人だったのかも知れない。
「なあケサパサ、俺の成功を一緒に祈ってくれ。」
そんな事を言いながら、コンピューターにデータを次々と打ち込んでゆく。現在までに解析されている遺伝子構造にその他のものを系統立てたものである。その生物の特徴なんていうのもデータの中には入っている。もっとも個体差を消すために一種当たり複数の個体分を打ち込むので相当なデータ量となる。並のコンピューターなら一発でメモリーがパンクするであろうその量を、しかしこいつは全て順調に受け入れて記録していっている。
やがてデータの打ち込みが終了した。すでに夜は明けていて、午前六時を三分程経過していた。どうやらデータの打ち込み作業に没頭している間に夜が明けていたらしい。心なしかケサランパサランも眠たそうに見える。
「おいケサパサ、起きろ!これからこいつを動かすぞ。」
ケサランパサランが身震いした様な気がした。もちろん目の錯覚だという事はわかっているが、何かしらこいつには人間臭いところがあり、僕は生き物の様にかわいく見えて、仕方ないのだ。
だが今日のケサランパサランは何かに怯えているように思えてならなかった。それが何に対してかはわからなかったが。そんなそいつの姿を見ていると、僕の方も何かしら訳のわからない不安にかられた。僕の頭の中に”崩壊するコンピューター”という最悪の事態が浮かんだ。
(いや、そんな事があるものか。こいつは僕が3年かけて造ったんだ、そんな簡単におかしくなるものじゃあない。)
そう自分に言いきかせると、演算開始の命令をキーボードで入力した。
カタッカタッカタッ・・・
今までと同じ様に小さな作動音が伝わってくる。しかし今度は今までの様にすぐに答えは出て来なかった。データの量や計算の困難さを考えると当然といえば当然な事だ。こいつは今、過去に誰一人としてやったことのない大規模な問題の解を求めているのだ。そして当面の間は、この問題を解かせるために作ったコンピューターなのだ。
五分経ち、十分経ち、やがて三十分経った。間もなく7時になる。そうすれば妹が起き出して朝食を作り出すだろう。そんな事を頭のすみで考えながら見ていたのだが、そのうちに何やら妙な臭いがしてきた。最初は気にならなかったが、しばらくしてその正体に思い至った。
(ビニールコードの溶ける臭いだ!)
僕は大急ぎで演算を中止させ、一時待機を入力して後、一気に本体のフタを開けて配線を調べてみた。
「あった!」
そこはどうしても光ファイバーを使う事の出来ない場所だった。故に、仕方なしに一般の銅線を何重にもして使っていたのだが、どうやら過負荷に耐えられず、オーバーヒートを起こしたらしい。
「ん?」
ふと何かが気になってよくのぞき込んでみると、そこには少し毛のコゲたケサランパサランが一匹いた。振り返って箱の中を見ていると先程の二匹はまだそこにいる。ということは・・・・・・・
「なんだお前、そんなところにいたのか。」
ホッとしてその一言だけを口に出すと、一旦コンピューターの電源をOFFにし、そいつを指でつまんで引っぱり出した。
「心配かけたらだめだろう。しかしまあ、一体どうやってこの中にもぐり込んだんだ?」
僕はそう言ってケサランパサランをつつくと、まるでダルマの様に一度向こう側に傾いたかと思うと、次はこちらに身をすり寄せてきた。
「プフッ、やっぱりお前達はかわいいなあ。そらっ、仲間のいる所へお帰り。もう勝手に転げ出ちゃダメだぞ。」
箱の中をころころと転がるそいつの姿は滑稽でもあり、しばしそいつらに見とれていたが、重要な問題を無視する訳にはいかなかった。
「さてと、銅線では間に合わなかったか。一体何を伝導体に使えばいいのやら。」
階下から妹の呼ぶ声が聞こえた。どうやら朝食が出来たらしい。

翌日、研究室で待っていたのは教授の辛辣な一言だった。
「それ見た事か。だからそんなものは作れんと言っただろうが。人の忠告の意味をもっと深く考えないからそんな事になるんだ。」
今日の教授は機嫌が悪かった様だ。研究室の人間は誰一人として近づこうとはしない。皆が皆、目をそらしたり、わざと知らんぷりをしたり、さも忙しそうに振る舞ったりして、関わり合いにならない様にとしている。
「どうだ、これで目が覚めただろう。だからだ、目が覚めた今の時点で自分の本職へ戻れ。」
「いいえ、教授、お言葉ですが僕はまだ失敗してはいません。あの部分、あの部分さえ何か別の物に取り換えさえすればいいんです。教授、何か伝導率のいい物質を知りませんか?」
その言葉を聞いた教授の顔が真っ赤になり、その後続いて青く、いやどす黒くなるのを僕は目撃した。
(テレビアニメでよくやってるあれは、嘘じゃないんだな。)
そういう妙な所に感心していると、ついに堪忍袋の緒が切れたのか、いきなり大声で怒鳴り始めた。
「いい加減にしろ川田!伝導物質だと?そんなものこの儂が知っている訳がなかろう!いいか、お前は一体何の研究者だ?」
「生物の遺伝子です。」
僕はやわらかに答えてみせた。
「そう、その通りだ。生物の研究者なんだよ、お前も、そしてこの儂もだ。それが何故コンピューターを作らにゃならん?」
「それは・・・・・」
僕は唇をかんで口ごもった。どうも僕の方が旗色が悪い。
「お前の言う”汎進化方程式”とかいうもののためか?前にも言ったはずだ、そんなものは存在しない。いや、存在するはずがない。理由は言わなくてもわかるだろう。そろそろ本当に目を覚ませ。」
「しかし・・・」
「しかしもへったくれもない。大体お前の好き勝手を認めているのは何故だと思う?お前の書く論文があまりにも優秀だからだ。しかしな川田、それも度を越せばそれまでだ。ここで白黒をはっきりさせろ。研究室に戻るか否かだ。もし戻ればそれでよし、そうでなければこちらにも考えがある。さあ、どっちだ!」
僕と教授はしばし睨み合った。教授の顔をじっと見ていて気の付いた事だが、怒りの中にすでにあきらめの心が見え隠れしていた。おそらく僕の返事の内容には、もう見当がついているのだろう。
「・・・・・残念ですが教授、僕はあきらめ切れません。許して下さい。」
「・・・・・・・・・・」
教授は黙っていた。しばしの間僕を睨みつけた後、気がすんだという風にがっくりと肩を落として疲れた様にこう言った。
「川田、本当に、お前本当に後悔しないんだな?それでいいんだな?」
「・・・はい。」
僕は少しためらってからそう答えた。教授の姿を見て心が揺らいだからであるが、この返事を聴いた教授は怒鳴った。
「そうか、残念だがやむを得まい。川田京二、お前は破門だ!卒業だけはさせてやるが、その後は二度とここへは顔を出すな!いいな、川田!」
だがその声にはもう先刻までの迫力はなかった。教授はそのまま顔を背けて僕に背を向けたが、僕はその姿に気の毒な感じを覚えた。
「失礼しました。」
その声と共に退室した僕はすでに教授に言った言葉などすでに忘れて後悔を始めていた。その時の教授の顔には――おそらくは僕の才能を惜しんでであろうが――涙がにじんでいた。僕の才能を一番認めていたが故に破門せざるを得なかったその気持ちを思んばかると少し心が重かった。

「こいつもう治ってやがる!」
家に帰った僕は心の底から真剣に驚いた。あれだけ毛のこげていたケサランパサランが、もう元通りに戻っているのを発見したのだ。
「昨日の今日でよくもまあ。」
僕の驚きは時間と共に感嘆の思いにとってかわり、そして大きな興味へと発展した。
(こいつ、一体どんな遺伝子構造を持ってるんだろう?)
僕の疑問は生物をやっていないものでもきっと持つと思う。たった一日程でケガの治る人間を、あなたは見た事がありますか?人間でなくとも動物でも良いのですが。
つまりはこうである。人間やその他の動物、植物にもそんな種族はまだ発見されていないはずだ。マンガの世界でを除けばではあるが・・・・・。
(こいつの遺伝子構造を解析する。)
この事は僕の心を大きく惹きつけた。何かしら、こいつを知る事が、僕の夢に大きく近づくための道しるべになる様な気がしたのだ。
僕は以前よりも一層研究に打ち込んだ。ただでさえ見えづらかった周囲の出来事がほぼ完全にみえなくなった。今の僕はもう”研究の亡者”という形容が一番ふさわしく思える様になっていた。あのやさしい早苗までが僕を恐れているかの様だった。
何度か良美から電話がかかって来ていたのは知っていたが、忙しいという理由だけで取りあわなかった。そしてそんなある日、ついに彼女は怒りの電話をかけて来た。だが、その日の僕はやはり何も聞いてはいなかったのだ。
「ちょっと、聴いてるの?」
「え?ああ、もちろんだよ。」
「いい、次の日曜日は絶対に家に来るのよ!わかった?」
「ああ、わかった。で、次の日曜日って何があるんだ?」
一瞬沈黙が支配した。しかし受話器越しに伝わってくる凶悪な雰囲気からして、彼女が相当怒っているであろう事が伺えた。
「あなたね、次の日曜は私の誕生日でしょ!バースディよ、バースデー!恋人の誕生日も忘れてしまってるの!」
そう言われてみればそうかも知れなかった。だが、曜日はおろか、日付けすらすでにわからなくなっている僕にはそんな話はピンと来ず、ただ単に何も仕事をせずに過ごしている今のこの時間を惜しむ気持ちしかなかった。
「そう言われてみればそうだったかな?」
不用意にも僕はそう言ってしまった。それが失敗だったのは、ほんの〇・一秒後にわかった。「あなたって人はそんな薄情な・・・・恋人の誕生日も忘れる程薄情なんだったのね。もういいわ、あなたなんか知らない!これでお別れよ、さようなら!」

気が付いた時には、切れた受話器を耳を押しあてたまま、ボーッとつっ立っていた。何も覚えていないその状態で一体何分間つっ立っていたのだろうか?僕はそれを本体の上にのろのろと置くと、そのままのろのろとした状態のまま階段を上り始めた。
最近二つ目の大きな打撃だった。この二つは意識してはいなかったが、かなり効いた。頭の中がボンヤリしていて、何も考える事が出来ない。考えようとする気力さえ失っていた。
(教授には破門され、良美には離縁され、一体このしばらくの間僕は何をしていたのだろう?)
ありとあらゆる神々を呪いたかった。もしいたらの話だが。
部屋に入ってドアを閉め、ディスプレイに目をやると、ケサランパサランの遺伝子構造解析結果が現れていた。それがもし目に映らなければ、本当に大声で神々に対して呪いの言葉を吐いていたかも知れない。
「こ、これは・・・・」
僕は絶句した。それはとんでもない結果を示していた。
「こいつは・・・地球上のいかなる生物の遺伝子とも異なっている。バカな、それじゃあ全く違った発生をし、違った進化をしたというのか?それとも地球外から持ち込まれたのか?」
そしてもう一つ、恐ろしい事を示す数行の文をディスプレイの中に見いだす事が出来た。
「この構造はもしかしたら伝導体になり得るんじゃないか?それじゃあ、こいつは自然が生みだしたまさしく天然の伝導体・・・」
僕は恐ろしさの中に一つの希望を見いだした。
(もしかしたらこいつをコンピューターの伝導体として使えるんじゃなかろうか?)
僕はチラッとケサランパサランを見やった。そのかわいらしいものは、そんな思いなど露知らずという風に、ぐっすりと眠っているみたいに思えた。それは平和な光景だった。

二回目の試験を行う準備が出来た。今回はすべての配線、基盤やLSI類をすべてチェックし直し、前回銅線でまかなっていた部分をケサランパサランに置き換えた。
あの日から数えてわずかに4日。最近の出来事を忘れようとして全てをかけて、全てをつぎ込んで完成させたものだった。
「もう後戻りはできないんだ。それにもうお前を除いては僕には何も残ってはいない。頼むぜ、相棒。」
僕は最後のチェックの時、ケサランパサランにそう言っていた。これ程の願いを込める事はもう一生ないだろう。
手順は前回と同じ手順を踏んで行う事にした。入力を終了したらすぐにディスプレイと並べて置いてあるモニターを見た。そこにはいろんな結線を施されたケサランパサランが映っていた。つまりはコンピューターの内部である。
今回は大丈夫だろうとは思っていたものの、やはり不安感はぬぐい切れず、内部に細工してカメラを仕込んでおいたのである。このカメラにはコンピューターとは別の配線を施し、決して故障が及ばない様にした。そのモニターに映る内部には今のところ別に異常は見つからない。

最後の問題になった。前回ついに解く事の出来なかった問題”進化方程式”を求める問題である。
僕は念を入れて内部をチェックした。
”オーバーヒートはどこにもないか?”
”配線はうまく接続されているか?”
そして
”ケサランパサランに異常はないか?”
だがすべてに異常は見られなかった。
カタッカタッ
という作動音は異常なく続いており、心の中で全てがうまく行く様に祈り・・・・
コンピューターディスプレイ上には
「現在演算実行中」
の文字と時折途中経過を表示する。現在まではうまくいっている様だ。生物ごとに発生・進化を系統づくり、一通りすんだところで今度は過去に遡って、絶滅した生物達の遺伝子を組み合わせで表示、及びプリンターによって結果は打ち出される。それらの神は机の上に、いや部屋の中に床の上といわず椅子の上といわず紙溜まりをつくっている。

プログラム実行開始後すでに半日、間もなく全ての系統樹が出来あがるはずだ。もし僕の理論が正しければ、進化方程式はあと一時間足らずで完成する。僕は興奮に胸が躍った。
(素晴らしい。このままなら大丈夫だ。演算能力は前回よりもあがっている。もうすぐだ、もうすぐ”解”が見つかるはずだ。そうすれば僕の理論が、理論の正しさが証明される。)
後に妹に聞いてみたところ、この時の僕は何かに取りつかれた様子で、恐ろしい形相をしていたらしい。それ程までに僕は陶酔しきっていた。
(まだか、まだか、いやもうすぐだ、もうすぐだ。)
はやる気持ちを押さえて、プリンターから流れ出すデータの量はいつまでたってもきりがない。もしかしたらそう思っただけかも知れないが、一体何回インクリボンを取り換えたかもう忘れてしまっていた。それでもまだ飽きる事なくデータははき出し続けられていた。もうまさしく”紙の洪水”の様相を呈していた。

いつの間にやらプリンターが止まっていた。外もいつしか夜となり、サラリーマン達が帰路を急いでいる。不思議と空腹感は感じなかった。
「熱中もそこまでいくと病気だな。」
友人達は後にそう言って笑った。
コンピューターは最後の演算に入っている様だった。それもほんの数分で止まり、遂に結果が表示される様だった。僕は思わず叫ばずにはいられなかった。
「結果は?解は見つかったんだろう?早く出せ!早く表示するんだ!」
次の瞬間、ディスプレイとモニターが同時に光った。いや、光っているのはモニターだけで、ディスプレイはその光のために見えないだけだ。
光っているのはケサランパサランだった。そいつが今、部屋中を照らし出すぐらいのまばゆい光を放っていた。何かを怒っているかの様だ。
コンピューターがカチッという音をたて、プリンターがほんの数行、動く音が聞こえた。どうやらこの異変の中でも求める答えをはき出したらしい。
やがて光がおさまった。恐る恐る目を開いてみると、コンピューターは止まっていた。ディスプレイの表示も消えている。見ると電源自体は切れていない様だから、どこかおかしくなったのかも知れない。
あれほどの光を放っていたケサランパサランは消滅していた。が、プリンターの文字は残されていた。手にして読んでみる。するとこうあった。
「自らの力で求めよ、我は全てを知り、知らない方が良かったと思った。知らない方が良い方の部類だろう。
我は姿を消す。君は君のための努力をしなさい。」

後には何も残らなかった。手の平を広げてじっと眺めやる。
「ふう。」
結局は何だったんだろうか?もはや何が何でも良かった。僕には何も残らなかった。でも一つだけわかった事があった。
「そう、全ては終わったんだ。僕はこれから全てを一からやり直さなければならない。」

廊下で妹が晩御飯が出来たことを告げていた。
 

黄昏の街に日は暮れて

 「お久し振りね。何年振りなのかしら?」
それが数年ぶりに再会した彼女の最初の言葉だった。
「さあ、二年か三年か・・・忘れちまったよ。」
実際は忘れようのない年月だが、あの日のことがあるが故にそう言わざるを得なかった。俺達は静かなクラシックと少し薄暗い照明とが独特の雰囲気をかもし出しているとあるバーのカウンタースツールに、並んで腰かけていた。活気とはかけ離れた、静けさを求めるための場所だ。
「そう・・そうね、もう過ぎたことだものね。」
そう、今もあの時も・・もう二度とこんなことはないだろうから。

 勝手知ったる地下鉄の改札を出て、ある特別な出口を通って地上へ出る。そこはなつかしく、そして見馴れた街、そう俺は数年振りに生まれ故郷であるこの街に帰って来た。何年経ったのかなんて忘れたつもりでいたが、このにおいのせいで結局は思い出してしまった。従軍中に聞いた話では、この街も何度か爆撃をうけたらしいが、その様な気配はまるでない。日が暮れればあいも変わらず車のクラクションが鳴り響き、呼び込みをする派手な格好の男達、今夜の連れを探す厚化粧の女達、警官の吹く笛、何ら変わるものはなかった。
(なつかしいな、この空気。)
俺はこの街が大好きだった。別に生まれ故郷だからというわけではない。ただ単に・・そう、土地柄というか、その土地の持つ独特の雰囲気を気に入っていたのだ。少なくとも俺をこんな気分にしてくれる場所は他には見当たらなかった。これまでいくつもの街を渡り歩いたにもかかわらずだ。もしあったのならばそこに腰を落ち着けたであろうから。そう、ただ単に見つからなかっただけのことだ。
信号が青に変わる。ざわめきあう人々が横断歩道を埋める。
「あのホロディスク買った?」
「ほんでさー、あいつったらよー・・」
「あの課長、好き放題言いやがって・!」
何世紀も前から変わらないであろう日常的な会話が交わされ続けている。今までそうだった様に、これからもそうだろう。何一つ変わることはない。世の中は「日常」という名の下に流れを止めてしまっているのだから。

 ダウンタウンに入るには古い橋を渡らなければならない。もとは名前があったのだろうが、プレートは俺が子どもの時分にはとうに風化してしまっていて、今では何という名の橋だったのか知る者は誰一人としていない。忘れられてもう何世紀もの時がたつのかも知れない。
通称「別れ橋」
この橋から二本目の道を左に折れて二~三分歩くと見慣れた光景に出会うことが出来る。数年振りに見る街並、俺の生まれ育った街、仲間達と走り回った街角、恋人と語り合った赤レンガ造りの階段、そしてライバルと議論を交わした街灯の下etc・・それら全てが走馬燈であるかの様だ。いや、この街、俺の街そのものが巨大な走馬燈なのだ。
(連中は元気なのだろうか?)
(あの娘は今、どうしているのだろうか?)
(頑張り屋のあいつ、博士号を取ると言ってたっけ。)
いろいろな想いが胸に満ちてくる。昔のなつかしい記憶、そして一番楽しかった時の記憶。今の俺は傷つき疲れ果てた心をひきずっているだけのしがない犬っころ。あの頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう?あいつと語り合った俺の夢は?あの娘に得意気に話した俺の未来は?
(もうどうでもいい事だ。)
最近になってからはそう思えるようになってきていた。
(今さら人生を変えることなんて出来やしない。俺は最初の段階で間違ってしまったのだ。後はその間違ってしまった道、いや川をただされるがままに流されて行くだけ・・・。)

 彼女と会ったのは偶然だった。あの時俺が立ち止まらなければ彼女とは行き違いになっていただろう。
そこは俺の生まれた家だった。その事実は俺が立ち止まってしげしげと眺めるには十分だったし、誰しもがそうする当然の行為だったろう。
買い物の帰りらしい彼女――俺の幼なじみで、いつでもどこでも俺と一緒だった――はパンやカンヅメのはみ出した大きな買い物袋を抱えており、俺の姿を見つけると「まあ!」とでも言い出さんばかりに目を見開いて驚いてみせた。
「少しの間、いいかな?あの店で。」
彼女は俺から目をそらすと、こくりとためらいがちに頷いた。
(変わらないのは横暴さだけだな。)
その認識がチクリと胸を刺した。

 ”あの店”こと”ヴィア ヴァイン!”はまだ時間が早いためか空いていた。ここが混雑し始めるのは真夜中を過ぎた頃で、朝方まで多くの常連客とほんの一握りの外来客とが店の雰囲気を楽しむのである。
客達は店の中に入った俺達に奇異なものを見る様な視線を一瞬投げかけ、(なぜなら、彼女は買い物袋を抱えたままだった。)そして例外なくすぐに興味を失ったかの様に目を元に戻した。
カウンターの一番端に自らの席を確保すると、とりあえず再会を祝するための酒を注文した。その間、いやここまで来る間、彼女は一言も喋らなかった。というよりかは喋ってくれなかったと言うべきかも知れない。一体何を不満に思っているのだろうか。一体何がわだかまっているというのだろうか。俺の中に何かしら”焦り”に似たものが増加していくのがわかった。
(不満なら)
俺はいらだちの中でそう思った。俺には覚えがある。あの日、必死になって止める彼女を結果的には振り切り、しまいには一言もなしに姿を消したのだから当然とも言えるだろう。もしかしたらその事を責めて欲しかったのかも知れない。この焦りに似たもやもやも、もしかしたらそのことで解消するのかも知れなかった。かと言ってそれを強要する様な資格が俺にあるだろうか?
(不満ならさっさと吐き出せばいい。わだかまりなら水に流せばいい。ただそれだけのことではないか。)
彼女が何を考えているのかは全然わからなかった。祝杯が運ばれて来た時、あまりの長い沈黙に堪え切れず、思い切って自ら切り出した。こうする以外どうすることも出来ないと判断したからである。
「元気そうで良かった。空襲が何度かあったとニュースで聞いていたし、心配してたんだ。」
彼女の表情が微かだが変化したようだった。今までぴたりとくっついていて、一言も発さなかった口も何かしらの言葉を紡ぎ出す兆候を見せている。だがそれも妙にさびしそうなものだった。
「そうね、お久し振りね。何年振りなのかしら?」
「さあ、二年か三年か・・・忘れちまったよ。」
彼女の声、久し振りに聞く彼女の声の(たとえその内容がどうであったにせよ)なんとなつかしいことか!
「そう・・そうね、もう過ぎたことだものね。」
だが俺とて、いつまでも熱くなっている歳ではない。彼女の雰囲気からこの科白が出てくるこ
とは最初からわかっていたはずだが、そう、なんとなく聞いてみただけなのだ。
再び沈黙が訪れた。形容するにふさわしい言葉の見つからない、不思議な沈黙だった。”一度も誰も望みはしない沈黙”
おそらくは世界で一番迷惑な沈黙。

 そんな間でも店の入り口が開き、数人の客が入ってくる。
ギィー、バタン!コツコツコツ
スッ、カツッetc・・・・
いろんな種類の音が、ゆったりとしたクラシック音楽が流れるだけの静かな店内に一種不釣り合いな音を提供し、わずかな時間、この空間の性質を少しだけ変えた。そして再び同じ音達の連続。
時計を見ると、店に入ってからさでに一時間半以上経過していた。妙に時間の経つのが遅いような感じがしたが、別にとりたてて気にはならなかった。何かを待っている訳でもなく、かと言って何かしなければいけない訳でもなし・・。戦場で、待つことには馴れてしまっていたが、――なにしろ、いつ来るかわからない補給と援軍を敵の包囲網の中で待ち続けたりしたのだから――俺は別段どうということはないのだが、彼女はよくもまあ、これだけの時間を気まずい沈黙の中で過ごせるものだ。
三度目のドアが開く音が響き渡り、四人の男が入ってきた。そいつらは俺達の沈黙をあっさりとやぶってくれた。俺の破れなかった沈黙を破ったのだ。結果として俺は彼らに負けたのだろう。
「よおマユミ、なんだ、今日は男連れかい?ん、おやぁマックじゃないか!久し振りだなあ。」
「エリックか!そういうお前も元気そうじゃないか。」
エリック・バーランド、俺の親友だった男。いや、今でも少なくとも俺は親友のつもりである。彼に会うと妙に心が和む。
「おいおい、俺達のことをお忘れでないかい。」
アーネスト、ウェストン、カーネル、エリックの横合いから声をかけてきた俺の親愛なる悪友たち。こいつらはいつまで経っても変わることはないだろう。
(いつまでも変わらない、か・・俺なんか一体どのくらい変わってしまったか・・・)
俺の暗い表情に反応してか、一瞬の空白が生じた。それを利用するかの様にバーテンが入り込んでくる。
「お客様方、申し訳ございませんが、当店は静かさの店ですので。」
事実、店の客らは冷たい視線を投げかけて来ていた。まるで我々のために折角の雰囲気が台無しだと言わんばかりに。実際少しはしゃぎすぎたらしい。俺達の再会の声は彼らの回顧の想いを断ち切ってしまっていたのだ。
「それからご注文は何になされますか?」
「あ?ああ悪い、スコッチをくれ。」
「はい、かしこまりました。」
俺は声を殺して笑った。エリックの声がやたらとおかしく聴こえたからである。沈着冷静なエリックにしては、やたらと上ずったその声が。
「ひでぇなあ、別に笑わなくたっていいだろう。」
怒ったような拗ねた様な不気味な声を出してみせた。かと言って実は冗談だ、などといういつものパターンかも知れないから、迂闊な事は言えない。

 酒が運ばれてくるまでの間、そして運ばれてからも、俺達は思い出話だけに花を咲かせた。俺が”今”を語りたがらなかったからで、結局のところは”今”に行きついてしまったものの、その時は「かなりわがままだな」と自分でも思ってはいた。だが、だからと言って何だと言うのだ。少しぐらいは俺の言うことをきいてもいいではないか、大体俺はこの世界の・・・

(はっ!)

俺は何を考えていたのだろう。いや、なんてことを考えたのだろう。こんなことを考えてはいけないのだ。

 「あの頃は良かったよなあ。みんなで近所にいたずらして回ったものだ。ジョンじいさんの所とかな。」
「ああ、そうだったな。よく怒られたもんだ。で、じいさんは今どうしてる?」
皆の顔が「何を言ってやがるんだ!」と言わんばかりに曇った。俺が不思議そうな顔をしていると、
「何言ってんだ。半年前お前に送った手紙に書いたじゃないか。死んじまったんだよ、肺ガンでさ。もう手遅れだったんだ。いい人だったのになあ」と。
「そうだったのか・・・」
手紙をもらった記憶はある。なのにそんな文面はどうしても思い出せなかった。そのことに関連して、何かもっと大切なことを聞いたことがある様な気がしたが、同じく思い出せなかった。何かが思い出させまいと記憶をブロックしているかのようだ。
「おいおい、記憶力が鈍ったか?」
そんなつもりはなかった。俺は昔から記憶力が良く、軍でもそれを見込まれたため、いろんなものを使わされた。それにまだボケるほどの歳ではない。
「ああ、どうやらそうらしい。」
とは答えたものの・・・

 「俺、結婚してねぇ。」
「そうなんだ。こいつ一人で抜けがけしやがったんだ。」
「そうそう、しかもかなりの美人だぜ。」
「そりゃ許せないなあ。」
薄い煙草の煙とグラスの中で揺れる氷の音。少し暗めの照明と静かに流れるクラシック。
4人が来てくれたのは非常に有難かった。次第にマユミも口を開くようになり、もうだんまりを決め込むのをやめていた。もっとも、俺に対する態度はまだ少し冷たかったが。
「まあ、マック。実は俺夢を叶えたんだぜ。」
「じゃあ院へ行ってるのか!」
「ああ、来年あたりは卒業できそうだ。もっとも、早く卒業してもらわにゃ大学の方も困るだろうけどな。」
「戦時特例法か・・・」
戦時特例法。「十五歳以上六十五歳未満の男子、及び十五歳以上五十五歳未満の女子は学生を除いては全て兵役に服する義務を持つ。大学に関しては兵器開発に関する分野以外は閉鎖し、そこの学生に関しては卒業後無条件で軍兵器開発部に入るものとする。」というとんでもない法律。そんな世の中の状況下で、よくもまあエリックは大学院まで行けたものだ!
「うん、うちの研究室が長距離航行用の新型エンジンを開発してな。それでなんとか誤魔化してね。」
「でもくやしいだろ、自分達の造ったものが兵器になるなんて。平和主義者のお前には。」
「ああ、でもいいのさ。エンジンは平和になってからも、いや平和になってから役に立つ、必ず。」

 うらやましい奴。俺と同じ夢を持ちながら、奴はかなえて研究職、俺はかなえそこねて一兵卒。たった一〇点の差でこのざまだ。あの日より前にも道は狂っていたわけだ。
「ウェストンはうまくやって結婚までしたけどね。俺は相変わらずさ。」
「全く、右に同じ。」
なつかしい仲間達の声を聴いていられるのは楽しいことだ。しかも隣にマユミがいればなおのことだ。だが、彼女は再びうつむいて、それを目敏く見つけたエリックは俺を責めた。
「お前、マユミにあやまったのか?彼女はな、お前が帰って来るのをずっと待ってたんだぞ。見合いも断わり、他の恋愛も一切せず、お前の帰りだけを待ち続けたんだぞ。」
だから?だからどうだと・・いや、あやまらなければいけない。全て俺のせいなのだから。
「いいのよ。気にしてないから。」彼女はきっとそう言うだろう。昔からいつもそうだったのだから。

 彼ら四人は席を立った。俺達を二人きりにしようという配慮からだろう。おせっかいな奴らだ。
「マスター、騒いですまなかったな。」
との言葉を残し、他の客の非難がましい視線を浴びながら彼らは退場して行った。あとには、飲みかけのグラスが四つと元の通りの静けさとだけが残った。
「ごめん、あの日は・・」
気まずさの中で言えた全てがこの言葉だった。なんとなく照れ臭くて・・いえただけでもましだろう。いつもならなんとなくはぐらかしてしまうのだから。
「ううん、いいのよ。昔のことだもの。」
沈黙。しかし沈黙だらけの再会とは恐れ入ってしまった。いつもなら陽気に体験談を聞かせてくれる彼女なのに。やたらとおしゃべりな二人なのに。ああ、みんな俺が悪いのだ。
「出ようか。」
この言葉は二回目の努力の結果であった。この努力だけは認めてもらわなければ身もふたもない。彼女の頷きがどれほどすばらしいものに思えたことか!

 店を出ると、しとしとと雨が降っていた。俺達は水溜まりに広がる波紋がちらつく中を傘もささずに寄り添って歩いていた。あの日、俺が彼女に「さよなら」を言った何年か前のあの日と同じだった。あの日の事が頭の中を過った。
さよならを言う俺。
うつむいて何かを耐え、溢れ出しそうになる涙をじっとこらえているマユミ。
そして、そんな風にしてなかなか別れない俺達の間を無常にも引き裂き、「早くしろ」という無粋なたったの一言で連れていった
同僚。あいつは結局死んじまった。バチが当たったに違いない、ざまあみろだ!

 「別れ橋」の近くまでやって来た。あの日と全く同じ、一つだけ違うのは、今度は2人の仲を邪魔する奴がいないということだけだ。
俺は彼女が好きだった。そして彼女も・・だからこそ、あの日別れることを決心したのだ。だが今回は、そう、今回だけはそうしてはいけないのだ。なぜならこれは俺が望んだことなのだから。
「マユミ!」
俺は彼女を抱きしめた。端から見れば大胆な行動だが、俺をつき動かしているこの想いが本物であることはお互いに知っていた。だから彼女も抵抗などはしなかったのだろう。
「俺はもう何処へも行かない、いつまでもこの街で暮らす。一緒にいてくれるだろう?なっ、マユミ。」
彼女は俺の腕の中で激しくむせび泣きながら、小さくではあったが頭を横に振った。少しためらいはしたものの・・・
(俺は彼女に拒否された)
その事実が俺の頭をうち、体を金縛りにした。何故?どうして?
俺は彼女の肩に手を置き、ゆさぶりながら尋ねた。
「何故なんだマユミ。どうして?!確かにあの日、俺は君を、結果的にとはいえ捨ててしまった。でもこうやって戻って来て、やり直そうとしてるんじゃないか。身勝手なことだとは思うけどさ・・どうして?!」
「お・・遅すぎたのよ、その・・・・言葉・・・あの日、あの時言ってくれたら、どんな所にだってついて行けたのに・・・・・」
彼女の体が淡く紫色に光を発し始めた。俺の胸から離れて走り去ろうとする彼女の手を”行かせるものか”という一念の元に握りしめた。だが彼女の顔はさらに悲しみを増し、さらなる涙が溢れ出して頬を濡らした。

 (女を泣かした。)
(悪い奴だ。女を泣かせやがった。)
(まったく、女の敵ね。)
(いーやや、いやや、泣かせよった泣かせよった。)
(あいつ悪い奴だなあ。)

通りを歩いている人々が俺を非難している。
ちがう!ちがうんだ、みんな聴いてくれ!
今の俺は被告席で唇を噛みしめながら耐えている、あるいは無実を喚き散らしている罪人だった。

(違う、違うんだよ!頼むから聴いてくれ!)
(いいや、違わない。事実は事実だ。)
(周りを見てみろよな。)
(彼女は泣いているじゃないか。)
(事実は認めたらどうなの?)

証言台に立つ彼らは糾弾の手をゆるめない。周囲に俺の味方は一人もいなくなっている。非難の風は飽くことなく吹き続けている。間もなく判決が下されるだろう。
きっと俺は自分の良心に責められているに違いない。心に見離されたなんて・・・もう・・・・・・終わりだ・・・

 「私、いいんです。」
遠いような近いような、妙に冷たくて寒い場所からマユミが言った。その妙な感覚は風のせいかもしれない。
「いいんです、もう。気にしないで下さい。彼とはもう会えないんですし、彼も気の毒なんですから・・」
「何を言ってるんだマユミ。こうして今いるじゃないか。これからはうまくやって行けるさ。」
俺は再び抱きしめんと、彼女の腕を引き寄せた。が、俺の腕の中におさまりかけた瞬間、そう、もうほとんどおさまっていたその瞬間、彼女の体は散り散りとなり、風に吹かれて流される光る紫の鱗粉と化した。と同時に、周囲の人々も同じ道を辿り、それぞれの方向へと散って行った。

 「マユミ、待ってくれ!頼む!」
俺は彼女の光が流されていく方へと走った。光はまるで導くかの様にゆっくりと、だが俺に追いつかれないぐらいの速さで確実にある方向へ向けて流れていく。
(くそっ!風よ止め!でないと追いつけないじゃないか。それにしてもなんて走りにくい道なんだ。まるで獣道みたいだ。)
俺は舗装されているはずの、妙に障害物の多い道を必死で走った。何度もつまずき、何度も転びそうになりながら。そして・・・・・

 泥まみれになって寝ころがっている自分に気が付いた。紫の光は、そうマユミはこんな俺の目の前に立っていたはずなのだ。だが俺にはもう見えなかった。おそらくは他の誰にも。
周囲を見回して映った光景は、爆撃の傷跡が生々しい廃墟の街だった。アスファルトに穴があき、瓦礫の山がそこかしこに転がっている。その間に見える物体は、おそらく住民の死体だろう。事実、手をのばせば届きそうな場所にも、千切れとんだ一本の足が転がっている。
そう、二週間前この街は、俺の故郷は爆撃を受けた。そしてその大規模な爆撃のため、街はマユミや親友やそのた大勢の人々を道連れにして滅び去ったのだ。
「マユミ、許してくれ・・あの時、俺にもう少し勇気があればこんなことにはならなかったのに・・頼む、許してくれ・・・・」

 だから、そう、だから今まで見ていた出来事は、おそらくは麻薬で頭のいかれた俺の見ていたはかない夢。薬の切れかけた中毒患者
の見る幻覚。そして俺の行動を糾弾する”良心”という名のレンズが映し出した蜃気楼・・・

 雨は未だに降って、俺の体を、俺の心をうち続けていたが、朝になれば誰かが、水溜まりの中で泥にまみれ、狂った様に笑いながら、それでいて口は詫びの言葉をつむぎだしている、麻薬中毒の軍人を見つけるだろう。結局はあの日を境として全ての道を踏みはずしてしまっていたのだから。

 廃墟の街に俺の狂ったうつろな笑いと、どこからか流れてくる調子の狂ったオルゴールの音が奇妙なハーモニーを作り出す。そして瓦礫の上には風に吹かれるすみれが一輪・・・色鮮やかな花一輪・・・・・・・・
 

俺は誰だ!

 「デートして下さい!」
俺はいきなりそう切り出した。一体何故こんなことを言い出したのか、また何の脈絡があるのかは本人すらわからない。ただこの時わかっていたのは、俺がなんとなくヤケになっていたのと、空が素晴らしいほど青く晴れ渡っていたことである。何をするにせよ絶好の日よりではないか!
さて、俺のそんな思惑はそっちのけで、言われた相手は目をまん丸にして呆然と立ちすくんでいる。「あっけにとられている」という奴かも知れないが、要は事態をよく飲み込めていないのだろう。まあ仕方がない事ではあるが。
(いつになったら返事をくれるんだろう・・)
俺はその娘の顔を真剣な顔でジッ!と見つめながらそんな事を考えていた。それはほんの一瞬の間だったかも知れないが、もしかしたらあまりの出来事に心臓が止まってしまったのではないか、と心配したくなる程長く感じられた。どうやら心配性らしい。
「え?」
その娘はやっと反応した。年の頃は二十±一・七歳、髪は長く眼鏡をかけていて、なかなかの美人である。重そうなカバンのすき間から何やら難しそうな名前の本が顔を覗かしていることから、おそらくは大学生というところか・・・・・。
「あのー、何とおっしゃいました?」
彼女はいささか顔をこわばらせながら尋ねてきた。俺はもっともだと言わんばかりに真剣に頷き返し、
「デートをしてもらえませんか、とそう言ったんです。」
と答えた。
彼女は冗談を言われたんだと思ったらしい。初めはニコニコしていた。がやがて俺が本気であるのを知ると驚きを通り越して恐怖を表した。そらそうだろう。街中を歩いているといきなり見知らぬ人間から「デートして下さい」などと言われたらあなたはどうしますか?え?喜んでついていく?それは予想外だ。やはりこういう反応を示すだろうと言って欲しかったのに。まあそれはともかく・・・・
「あのー、こんな、道の真ん中では何ですからそこの喫茶店にでも入りませんか?」
と彼女に提案してみた。いいかげん気になってきていたのだが、先程から通行人が道の真ん中につっ立っている俺達をじろじろと見ているのである。中には立ち止まってにやにやしている奴もいる。どうやら彼女にもその事が理解できたらしい。何やら納得のいかないような顔をしていたが、しばらくして「わかった」という風にコクリと頷いた。だが結果的には、この事は俺の思う状態へは繋がらなかったのである。

(世の中とはそういうものだ。)

 「えー!記憶喪失?!」
俺は耳を押さえた。その行動は「うっそー!やっだー!ほんとー?」という感じのイントネーションで発せられたその言葉が流れ始めるのと同時だった。とは言え、流れる前に押さえるのは無理だし、事実耳を押さえた頃には全ての言葉は発し尽くされていた。従って聞こえてしまってからでは遅いと思うのだが、キンキン声を聞いた時、人は耳を押さえるという行動を無意識のうちにやってしまう。「反射行動」と俗に言われる行動である。
「ええ、実はそうらしいのです。自分の名前とか住所とか職業、家族構成、その他何も思い出せないんです。だた一つわかっているのは、自分の記憶力に関しては多少の自信があるということだけなのです。」
周囲から同情や好奇の視線が突き刺さってきているのがわかる。まあ普通の人間は記憶喪失の奴に会うことなんてないわけだから、わからんでもないが。俺だってそんな奴がいたなら同じ行動をとったに違いないのだから。
「まあそうでしたの。それは大変でしょう。そうだ!うちへいらっしゃいませんか?兄なら記憶喪失でも直せると思うんですけど。」
大変なのには違いないが、彼女の言葉は有り難かった。不治の病にかかった男がいきなり、「特効薬がありますよ」と言われたら丁度こんな感じだろう。
「ほ、本当ですか?!ぜ、是非紹介して下さい、お願いします。早く行きましょう、今行きましょう、すぐ行きましょう。」
俺は彼女をせかし、席を立って店を出ようとしたが、彼女は席に座ったまま黙々とパフェを食べ続けている。訝しげに尋ねると彼女はにっこりと微笑んでこう言った。
「あら、折角のデラックスパフェですもの、最後まで食べて行かないと、ねっ。あっ、それからお勘定の方はお願いできるんでしょ?ほんの千円ぐらいだし。」・・・・・・・・・・・・女は強し・・・

 「どうも、私が川田京二です。」
白衣に銀縁眼鏡、少しひょうきんそうで博識らしい天才タイプの男。第一印象はそんなものだった。この時はまさか彼が恐るべき伝説の”気違○博士(M・S)”だなんて思いもよらなかったのだから。
「なる程、なら話は簡単だ。要はついこないだ作ったばかりの例の装置を少々改造すればいいわけだからな。」
彼に経緯を話してみたところの返事がこれである。はっきり言って俺は帰りたくなった。なんとなく、いや明確な恐怖感を覚えたためである。彼のあのうれしそうな顔、態度、俺のことをまるで新しいおもちゃかなにかの様に見ているあの目。普通ハンサムな男だと非常に情けない顔になるであろう状態なのに、何故かさらに(女性から見れば)魅力的であろう顔つきになるのである。それは同姓の俺からしてもうらやましい事で、もっと言えば腹が立つのである。
「美人の兄はハンサムか・・・」
きっと両親も美男美女なんだろう。なんでそうなんだろう。世の中理不尽だ。頭がよくてハンサムで、女の子にもててetcetc・・・それらもろもろのものがたった一人に集中していいのか!そんなのが許されるのか!
「え?何かおっしゃいましたか?」
そう言われて、あわてて周囲を見回すと、妙な顔をして俺の方を見ている兄妹に気が付いた。どうやらうっかりと声に出してしまったらしい。俺はうろたえもせずあわてもせず(ふりだけ)やんわりと受け流した。もっともあまり成功していたとは思えないが。
「いえ、すごい部屋だなあと思いまして。」

 テレビ、ビデオ、コンポ、テーブル、ソファー、観用植物、時計、ピアノ、布団、枕、ミラーボール、ロボット魚の入った水槽、ベルトコンベアetc
「一体全体、どの様に機能する部屋なんですか?」
「なに、簡単な事です。例えばこの縦横無尽に走っているベルトコンベア。あれは流れ作業用です。一つのものを作るにも速いに越したことはありませんから。それにあのコンポ、一見すると普通の市販品と変わりませんが、特殊な配線により特殊な音波を発します。あれとミラーボール、もちろん改造品ですが、とを組み合わせば容易にこの部屋を異次元空間にすることが可能です。」
「そ、そうなんですか?!」
驚いてしまった。異次元空間を簡単に作ることが出来るだって?しかしそんなものをどうするというのだろうか。別に仕事がはかどる訳でもないし、遅刻せずにすむ訳でもない。また、水泳がうまくなる訳でもないし、雨の日に傘がわりになる訳でもない。
「そういう馴れていない場所は人間に刺激を与えるんですよ。その刺激が必要なわけです。あなたの記憶を元に戻すための環境としてね。」
俺の小市民的な疑問に答える言葉を出してくれた。かと言って、さも納得したような顔こそしているものの、何故そうなるかわかっているという訳でもない。やっぱり無理してでも納得した方がいいのだろうか、それともしない方がより治療効果があるのだろうか・・・・・

「準備が出来ましたわよ。さあどうぞ。」
彼女(川田早苗さんらしい)が呼びかけてきた。”天使が運んでくる悪夢”、何の脈絡もなくそんな言葉が脳裏に浮かんだ。
見ると部屋の真ん中に、何やら左右に奇妙でやたらゴテゴテした装置をたくさんつけたソファーが置いてある。座り心地は良さそうだが、一つ間違えば歯医者の使う拷問台のようなデザインだ。そう思うと体が恐怖に凍りつき、背中を冷たいものが流れた。精神的外傷にこそなってはいないが、子どもの頃の嫌な思い出はおそらく誰しもが持っていて、決して忘れ得ぬものであろう。
俺は拷問台に縛りつけられながらぼんやりと考えていた。
(麻酔注射はあるのだろうか?)

 「いいですか?私の言う事以外の事はしちゃいけませんよ。」
「はい。」
注文の多い治療だと思うのだが、患者でありしかも無料で治してもらおうという人間がとやかく文句を言えるような筋合いではない。体をソファーに縛りつけられた上、頭や手足に電極だの何だのを付けられたのだ。これ以上、まだ望まれるのか?ここまで来て、俺のイメージは歯医者から刑場へと発展していた。
「それでは治療を始めます。いいですか?」
一応無愛想に頷いては見せたものの、喉はゴクリと音を立てていたし、もしかしたら顔も緊張にひきつっていたかも知れない。いずれにせよまかせるしか他はないのだし、俺が無理して頼み込んでいる訳だから(たとえ相手が喜々としていようと)、こちらから「だめです」などと言えるはずがないではないか。
(いいんだ、いいんだ。どーせ俺はモルモットなんだ。顔も悪いし頭も悪い。生きていたって何の役にも立たないんだ・・・・・。」
むに!
という感覚がしたと思った途端、風景が変化した。しばしの間いじけるのを止めて周りを見まわすと・・・赤というか黄というか青というか、別に信号機ではないのだが、いやもしかしたら紫かも知れないし、ピンクかも知れない。とにかく訳のわからない色彩が流れ出した。その中にたった一つだけ、俺の座ったソファーが空中に浮かんでいる。
背中を流れる冷たい物を感じ始め、続いて足がガクガク震えているのがなんとなくわかった。
カタカタカタカタ・・・・・・カタカタカタカタ・・・・・カタ・・・
その無限とも思える時間と常に流動している色彩との中でいつまでも座り続けなければならないようだった。これは非常に苦しい。今にもその辺から”ニュッ”と手が出てきて身動きのとれない俺を絞め殺すか、それとも鼓動の早い心の臓を文字通り鷲掴みにしてしまうのではなかろうか。そう思うといてもたってもいられなくなる。とにかくそんな感じが連綿と続いていた。
(おや?何の音だろう?)
何かが聞こえたような気がした。もちろんそれは錯覚だったのかも知れないが、間違いなく、確かに、何かが俺の視野の上の方で動き、妙な音をたてたのだ。そ、それに上から変な圧迫感を受けている。も、もしかしたら・・まさか、そんな・・・・・・冗談でしょう?!誰かなんとか言ってくれー!!
ゴーン
未知のものに対する恐怖心が絶頂に達し、悲鳴をあげようとしたその寸前、その鐘のような音は俺を丸ごと呑み込んでいた。

 (おや、ここはどこだろう。)
目を覚ました俺が真っ先に考えたのはそれだった。そこは見馴れぬ部屋だった。テレビ、ビデオ、コンポにテーブル、ソファー、まあそこまではわかるとしてあのベルトコンベアーは一体何に使うのだろうか?こんな訳のわからない部屋を見知っているはずがない。
「気が付かれましたか?」
見ると、まるで天使のような美人が俺をのぞき込んでいる。その微笑みは太陽よりもまぶしく、月の光よりも美しく、すみれの花よりも可憐で、それからえーと、えーと・・・・
「ああ、気が付かれましたか。どんな感じですか?」
声をかけられた方を振り返ると、これまたハンサムな男が彼女の隣へと立った。彼女の言葉を聞いて、俺の様子を見にきたのだろう。だが、とりあえずはこの二人にも見覚えがなかった。一体ここはどこで、この二人は誰なのだろうか。その疑問が解消されないうちに女性の方は俺達二人を残して部屋から出ていってしまった。
「どうです、今のご気分は。」
「ああ、悪くはないが・・一体ここはどこで君は誰だ?何故俺はここにいる?何も思い出せないんだが、良ければ説明してくれないか?」
「ええ、」と彼はこまごまと説明を始めた。
「実は、かくかくしかじか、という訳なんです。」
要約してみると「記憶喪失で困っているあなたを妹がうちに連れてきて、それを直したんです。」という風になる。
しかし電柱にぶつかった後、そんなことになっていようとは思いもしなかった。短時間とはいえ、いろんな体験をしたのだなあ、しみじみ・・・・・
(心理表現空間)
「あのー、で、お名前は思い出されましたか?」
しみじみと自分の世界に入り込んでいた俺に彼(川田京二という名らしい。ちなみに妹は早苗さん)が質問してきた。うるさい奴だとは思うのだが、世話になった(らしい)上、そんなことを言えば失礼もいいとこだ。従って、たかだか名前なんだし別に言ったところでどうということはないであろう、という結論に達した。
「私の名前は・・・・・・・・あれ?おかしい、思い出せない。」
彼の表情が曇り、俺もあせった。おかしい、何故思い出せないんだ?何故・・・あっ!そうか!この事実をしゃべるのは非常に気が滅入るのだが・・・・
「実は、実はですね・・・・」
「おまたせいたしました。紅茶でもどうぞ。」
早苗さんが盆皿にお茶とお茶菓子とを持って戻ってきた。そ、そんな、彼女の前でこんな情けないことを言わなければならないなんて。この世には神も仏もないのか!だが、し、仕方がない。
「京二さん。」
俺は小声で囁いた。
「彼女に一目惚れなんです。彼女を、早苗さんを僕にください。」
「カップメン三年分で手を打とう。その前に是非名前を教えてくれ。」
折角なおしたんだからと言わんばかりに、小声で囁き返してきた。俺の小さな野望も希望も、そのたった一言で崩れ去ってしまった。 振り返ってみると、思わずひそひそ話をしてしまった男二人を前に、早苗さんはキョトンとしている。それがまたかわいい。だが俺は恐るべき、そして限りなく情けない事実を話さなければならないのだ。俺は・・・俺は・・・・・・・・・
「実は・・・・私は・・私の名前は・・・・実は私は、記憶力が極端に悪いんです!自分の家どころか名前すら覚えられなかったんです!唯一覚えられたのは私はとてつもなく記憶力が悪いということだけなんです!お願いです、私の名前を教えて下さい。私は一体誰なんでしょう?!」

P.S.
世の中とは油断できないものである。
 

時間 ~Long Long Time~

 私はロボット。長い長い時の流れの中を動いてきたロボット。いつも一人だけ取り残されてきた。体の中では錆びついた歯車がギシギシと音をたてながら回り、弱り切った燃料電池は流す電気量を減らしてきている。まるで私に反抗しているかの様に。薄暗い地下室でただ一人、うつむいて座り込んでいるだけ。

 昔々、女の子がいた。ショートカットの良く似合うボーイッシュな娘だった。
私と彼女は一緒に、よく学び、よく遊び、そしてよく眠った。私は彼女の一部であり、親友であり、幼ななじみであり、そしてまた仲間でもあり、時には恋人だった。
夏の海にいやがる私を無理矢理連れて行ったのも彼女だった。あの後、潮風で錆びつき動けなくなった私に、涙をボロボロこぼしながら謝っていた姿を今でも覚えている。あの頃は楽しかった。そしてその時は永遠に続くものだと、少なくとも私はそう思っていた。
しかし、彼女が成長し、大人に近づいていくにつれ、彼女の視線は少しずつ私から離れていき、行動的にも穏やかなものへと変化していった。
やがて彼女は成人となり、よく晴れた春の日に真っ白なドレスを着て、見知らぬ男と手を取り合って、楽しそうに笑いながらこの家を出ていった。私を一人ぼっちにして・・・
彼女は今どうしているだろう?幸せに暮らしているだろうか。それと彼女にとっての私とは一体どの様な存在だったのだろうか。もし知っているなら、心ある人よ、教えておくれ。

 昔、男の子がいた。腕白でいたずら好きでどうしようもない奴だった。
私と彼は一緒に、よく語り、よく走り、そしてまたよくいたずらをし、よく笑い合ったものだった。彼は十九年間私とふざけあった気の合う友人であり、時には先生と生徒だった。
一緒に家のドアに水入りバケツをしかけ、親兄弟がひっかかるのを楽しみに待ったことがある。もっとも、この時は客がひっかかってしまい、後でこっぴどく叱られたものだったが、彼が。
しかし十九歳となる数日前、親と派手な喧嘩をしていきなり家を飛び出していき、それきりここへは戻って来なかった。あれ以来彼には一度も会っていないが、今でも元気に笑っているのだろうか。もし会ったなら心優しき人よ、伝えておくれ。私が今でも帰りを待っていると。

 画家がいた。若くて世間知らずの苦労を経験したことのない男だった。
私と彼は一緒に、山を歩き、小川を渡り、この国のいろんな場所をイーゼルとカンバスや絵の具などをしょって旅した。私と彼の助手であり、良き理解者だった。彼には大きな夢があり、量り切れない情熱があり、そして光り輝く希望とがあった。又、それを語ってくれる顔はまぶしいぐらい、生気に満ち溢れていて、私も彼のその話を聞かせてもらうのが楽しくてしようがなかった。そう彼の成功を心から望んでいた。
しかし、ある日突然、彼は自室で首を吊って動かなくなってしまった。私は驚いた。何故彼はこんな事をしたのだろう?昨日まで楽しそうに笑いかけてくれていたのに。
彼は自分の絵のほとんどを引き裂いていて、全く新しいカンバスの上に”自信がなくなった”と書いていた。”自信”とは一体全体何なのか、そんなに大切なものなのか、私にはわからない。彼の絵は今、大きな、街の美術館に飾られているというのに。

 それからしばらくの間、いや長い間私には一人の友人もできなかった。長い長い間ずっと一人ぼっちだった。私は自分の体が、整備もされないまま次々と朽ち果てていくのがわかった。自分の動作が鈍く、ぎこちなくなってきていることにはかなり前から気がついていた。暗いゝ地下室の中で、いつ現れるか知れない光を待ち続けていた。考える事と時間は掃いて捨てるほどあった。あの少女、少年、画家、時には実業家、教師、その他私にかかわった多くの、そしていろいろな職業の見知らぬ人々のことを。皆一体何のために生きたのだろうか。何のために私と知り合ったのだろうか。

 ある時、地下室の扉がゆっくりと開き、一人の男が入って来た。彼は私を見つけると、近寄って来て外へと運び出した。そしてその後・・・・・いや、やめておこう。そう、結局は同じだったのだ。彼もまた私を捨てた多くの人間のただの一人となっただけなのだから。

 私は蜘蛛の巣が張りめぐらされていて、埃の分厚く積もったあの地下室で今も静かに座り込んでいる。次の主人は、次の放棄者はいつ来るだろうか。私のまだ動ける間に現れてくれるのだろうか。
私はロボット。長い長い時を動いてきたロボット。体の中では錆びついた歯車がギシギシという音を鳴らしながら回り、弱り切った燃料電池は電力の供給をしぶっている。もうすぐ両腕両足は、変質・劣化したプラスチック部分で抜け落ちてしまうだろう。でもそれでもかまうまい。たとえ次の主人が目の前に現れなくとも。長い間、私は動いて”生きて”きたのだから。そろそろくたびれた。自らこの果てしなき物語にピリオドを打つのもいいかも知れない。
私はロボット。長い長い時間を動い・て・・・・・・・・

・・・カチッ