黄昏の街に日は暮れて

 「お久し振りね。何年振りなのかしら?」
それが数年ぶりに再会した彼女の最初の言葉だった。
「さあ、二年か三年か・・・忘れちまったよ。」
実際は忘れようのない年月だが、あの日のことがあるが故にそう言わざるを得なかった。俺達は静かなクラシックと少し薄暗い照明とが独特の雰囲気をかもし出しているとあるバーのカウンタースツールに、並んで腰かけていた。活気とはかけ離れた、静けさを求めるための場所だ。
「そう・・そうね、もう過ぎたことだものね。」
そう、今もあの時も・・もう二度とこんなことはないだろうから。

 勝手知ったる地下鉄の改札を出て、ある特別な出口を通って地上へ出る。そこはなつかしく、そして見馴れた街、そう俺は数年振りに生まれ故郷であるこの街に帰って来た。何年経ったのかなんて忘れたつもりでいたが、このにおいのせいで結局は思い出してしまった。従軍中に聞いた話では、この街も何度か爆撃をうけたらしいが、その様な気配はまるでない。日が暮れればあいも変わらず車のクラクションが鳴り響き、呼び込みをする派手な格好の男達、今夜の連れを探す厚化粧の女達、警官の吹く笛、何ら変わるものはなかった。
(なつかしいな、この空気。)
俺はこの街が大好きだった。別に生まれ故郷だからというわけではない。ただ単に・・そう、土地柄というか、その土地の持つ独特の雰囲気を気に入っていたのだ。少なくとも俺をこんな気分にしてくれる場所は他には見当たらなかった。これまでいくつもの街を渡り歩いたにもかかわらずだ。もしあったのならばそこに腰を落ち着けたであろうから。そう、ただ単に見つからなかっただけのことだ。
信号が青に変わる。ざわめきあう人々が横断歩道を埋める。
「あのホロディスク買った?」
「ほんでさー、あいつったらよー・・」
「あの課長、好き放題言いやがって・!」
何世紀も前から変わらないであろう日常的な会話が交わされ続けている。今までそうだった様に、これからもそうだろう。何一つ変わることはない。世の中は「日常」という名の下に流れを止めてしまっているのだから。

 ダウンタウンに入るには古い橋を渡らなければならない。もとは名前があったのだろうが、プレートは俺が子どもの時分にはとうに風化してしまっていて、今では何という名の橋だったのか知る者は誰一人としていない。忘れられてもう何世紀もの時がたつのかも知れない。
通称「別れ橋」
この橋から二本目の道を左に折れて二~三分歩くと見慣れた光景に出会うことが出来る。数年振りに見る街並、俺の生まれ育った街、仲間達と走り回った街角、恋人と語り合った赤レンガ造りの階段、そしてライバルと議論を交わした街灯の下etc・・それら全てが走馬燈であるかの様だ。いや、この街、俺の街そのものが巨大な走馬燈なのだ。
(連中は元気なのだろうか?)
(あの娘は今、どうしているのだろうか?)
(頑張り屋のあいつ、博士号を取ると言ってたっけ。)
いろいろな想いが胸に満ちてくる。昔のなつかしい記憶、そして一番楽しかった時の記憶。今の俺は傷つき疲れ果てた心をひきずっているだけのしがない犬っころ。あの頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう?あいつと語り合った俺の夢は?あの娘に得意気に話した俺の未来は?
(もうどうでもいい事だ。)
最近になってからはそう思えるようになってきていた。
(今さら人生を変えることなんて出来やしない。俺は最初の段階で間違ってしまったのだ。後はその間違ってしまった道、いや川をただされるがままに流されて行くだけ・・・。)

 彼女と会ったのは偶然だった。あの時俺が立ち止まらなければ彼女とは行き違いになっていただろう。
そこは俺の生まれた家だった。その事実は俺が立ち止まってしげしげと眺めるには十分だったし、誰しもがそうする当然の行為だったろう。
買い物の帰りらしい彼女――俺の幼なじみで、いつでもどこでも俺と一緒だった――はパンやカンヅメのはみ出した大きな買い物袋を抱えており、俺の姿を見つけると「まあ!」とでも言い出さんばかりに目を見開いて驚いてみせた。
「少しの間、いいかな?あの店で。」
彼女は俺から目をそらすと、こくりとためらいがちに頷いた。
(変わらないのは横暴さだけだな。)
その認識がチクリと胸を刺した。

 ”あの店”こと”ヴィア ヴァイン!”はまだ時間が早いためか空いていた。ここが混雑し始めるのは真夜中を過ぎた頃で、朝方まで多くの常連客とほんの一握りの外来客とが店の雰囲気を楽しむのである。
客達は店の中に入った俺達に奇異なものを見る様な視線を一瞬投げかけ、(なぜなら、彼女は買い物袋を抱えたままだった。)そして例外なくすぐに興味を失ったかの様に目を元に戻した。
カウンターの一番端に自らの席を確保すると、とりあえず再会を祝するための酒を注文した。その間、いやここまで来る間、彼女は一言も喋らなかった。というよりかは喋ってくれなかったと言うべきかも知れない。一体何を不満に思っているのだろうか。一体何がわだかまっているというのだろうか。俺の中に何かしら”焦り”に似たものが増加していくのがわかった。
(不満なら)
俺はいらだちの中でそう思った。俺には覚えがある。あの日、必死になって止める彼女を結果的には振り切り、しまいには一言もなしに姿を消したのだから当然とも言えるだろう。もしかしたらその事を責めて欲しかったのかも知れない。この焦りに似たもやもやも、もしかしたらそのことで解消するのかも知れなかった。かと言ってそれを強要する様な資格が俺にあるだろうか?
(不満ならさっさと吐き出せばいい。わだかまりなら水に流せばいい。ただそれだけのことではないか。)
彼女が何を考えているのかは全然わからなかった。祝杯が運ばれて来た時、あまりの長い沈黙に堪え切れず、思い切って自ら切り出した。こうする以外どうすることも出来ないと判断したからである。
「元気そうで良かった。空襲が何度かあったとニュースで聞いていたし、心配してたんだ。」
彼女の表情が微かだが変化したようだった。今までぴたりとくっついていて、一言も発さなかった口も何かしらの言葉を紡ぎ出す兆候を見せている。だがそれも妙にさびしそうなものだった。
「そうね、お久し振りね。何年振りなのかしら?」
「さあ、二年か三年か・・・忘れちまったよ。」
彼女の声、久し振りに聞く彼女の声の(たとえその内容がどうであったにせよ)なんとなつかしいことか!
「そう・・そうね、もう過ぎたことだものね。」
だが俺とて、いつまでも熱くなっている歳ではない。彼女の雰囲気からこの科白が出てくるこ
とは最初からわかっていたはずだが、そう、なんとなく聞いてみただけなのだ。
再び沈黙が訪れた。形容するにふさわしい言葉の見つからない、不思議な沈黙だった。”一度も誰も望みはしない沈黙”
おそらくは世界で一番迷惑な沈黙。

 そんな間でも店の入り口が開き、数人の客が入ってくる。
ギィー、バタン!コツコツコツ
スッ、カツッetc・・・・
いろんな種類の音が、ゆったりとしたクラシック音楽が流れるだけの静かな店内に一種不釣り合いな音を提供し、わずかな時間、この空間の性質を少しだけ変えた。そして再び同じ音達の連続。
時計を見ると、店に入ってからさでに一時間半以上経過していた。妙に時間の経つのが遅いような感じがしたが、別にとりたてて気にはならなかった。何かを待っている訳でもなく、かと言って何かしなければいけない訳でもなし・・。戦場で、待つことには馴れてしまっていたが、――なにしろ、いつ来るかわからない補給と援軍を敵の包囲網の中で待ち続けたりしたのだから――俺は別段どうということはないのだが、彼女はよくもまあ、これだけの時間を気まずい沈黙の中で過ごせるものだ。
三度目のドアが開く音が響き渡り、四人の男が入ってきた。そいつらは俺達の沈黙をあっさりとやぶってくれた。俺の破れなかった沈黙を破ったのだ。結果として俺は彼らに負けたのだろう。
「よおマユミ、なんだ、今日は男連れかい?ん、おやぁマックじゃないか!久し振りだなあ。」
「エリックか!そういうお前も元気そうじゃないか。」
エリック・バーランド、俺の親友だった男。いや、今でも少なくとも俺は親友のつもりである。彼に会うと妙に心が和む。
「おいおい、俺達のことをお忘れでないかい。」
アーネスト、ウェストン、カーネル、エリックの横合いから声をかけてきた俺の親愛なる悪友たち。こいつらはいつまで経っても変わることはないだろう。
(いつまでも変わらない、か・・俺なんか一体どのくらい変わってしまったか・・・)
俺の暗い表情に反応してか、一瞬の空白が生じた。それを利用するかの様にバーテンが入り込んでくる。
「お客様方、申し訳ございませんが、当店は静かさの店ですので。」
事実、店の客らは冷たい視線を投げかけて来ていた。まるで我々のために折角の雰囲気が台無しだと言わんばかりに。実際少しはしゃぎすぎたらしい。俺達の再会の声は彼らの回顧の想いを断ち切ってしまっていたのだ。
「それからご注文は何になされますか?」
「あ?ああ悪い、スコッチをくれ。」
「はい、かしこまりました。」
俺は声を殺して笑った。エリックの声がやたらとおかしく聴こえたからである。沈着冷静なエリックにしては、やたらと上ずったその声が。
「ひでぇなあ、別に笑わなくたっていいだろう。」
怒ったような拗ねた様な不気味な声を出してみせた。かと言って実は冗談だ、などといういつものパターンかも知れないから、迂闊な事は言えない。

 酒が運ばれてくるまでの間、そして運ばれてからも、俺達は思い出話だけに花を咲かせた。俺が”今”を語りたがらなかったからで、結局のところは”今”に行きついてしまったものの、その時は「かなりわがままだな」と自分でも思ってはいた。だが、だからと言って何だと言うのだ。少しぐらいは俺の言うことをきいてもいいではないか、大体俺はこの世界の・・・

(はっ!)

俺は何を考えていたのだろう。いや、なんてことを考えたのだろう。こんなことを考えてはいけないのだ。

 「あの頃は良かったよなあ。みんなで近所にいたずらして回ったものだ。ジョンじいさんの所とかな。」
「ああ、そうだったな。よく怒られたもんだ。で、じいさんは今どうしてる?」
皆の顔が「何を言ってやがるんだ!」と言わんばかりに曇った。俺が不思議そうな顔をしていると、
「何言ってんだ。半年前お前に送った手紙に書いたじゃないか。死んじまったんだよ、肺ガンでさ。もう手遅れだったんだ。いい人だったのになあ」と。
「そうだったのか・・・」
手紙をもらった記憶はある。なのにそんな文面はどうしても思い出せなかった。そのことに関連して、何かもっと大切なことを聞いたことがある様な気がしたが、同じく思い出せなかった。何かが思い出させまいと記憶をブロックしているかのようだ。
「おいおい、記憶力が鈍ったか?」
そんなつもりはなかった。俺は昔から記憶力が良く、軍でもそれを見込まれたため、いろんなものを使わされた。それにまだボケるほどの歳ではない。
「ああ、どうやらそうらしい。」
とは答えたものの・・・

 「俺、結婚してねぇ。」
「そうなんだ。こいつ一人で抜けがけしやがったんだ。」
「そうそう、しかもかなりの美人だぜ。」
「そりゃ許せないなあ。」
薄い煙草の煙とグラスの中で揺れる氷の音。少し暗めの照明と静かに流れるクラシック。
4人が来てくれたのは非常に有難かった。次第にマユミも口を開くようになり、もうだんまりを決め込むのをやめていた。もっとも、俺に対する態度はまだ少し冷たかったが。
「まあ、マック。実は俺夢を叶えたんだぜ。」
「じゃあ院へ行ってるのか!」
「ああ、来年あたりは卒業できそうだ。もっとも、早く卒業してもらわにゃ大学の方も困るだろうけどな。」
「戦時特例法か・・・」
戦時特例法。「十五歳以上六十五歳未満の男子、及び十五歳以上五十五歳未満の女子は学生を除いては全て兵役に服する義務を持つ。大学に関しては兵器開発に関する分野以外は閉鎖し、そこの学生に関しては卒業後無条件で軍兵器開発部に入るものとする。」というとんでもない法律。そんな世の中の状況下で、よくもまあエリックは大学院まで行けたものだ!
「うん、うちの研究室が長距離航行用の新型エンジンを開発してな。それでなんとか誤魔化してね。」
「でもくやしいだろ、自分達の造ったものが兵器になるなんて。平和主義者のお前には。」
「ああ、でもいいのさ。エンジンは平和になってからも、いや平和になってから役に立つ、必ず。」

 うらやましい奴。俺と同じ夢を持ちながら、奴はかなえて研究職、俺はかなえそこねて一兵卒。たった一〇点の差でこのざまだ。あの日より前にも道は狂っていたわけだ。
「ウェストンはうまくやって結婚までしたけどね。俺は相変わらずさ。」
「全く、右に同じ。」
なつかしい仲間達の声を聴いていられるのは楽しいことだ。しかも隣にマユミがいればなおのことだ。だが、彼女は再びうつむいて、それを目敏く見つけたエリックは俺を責めた。
「お前、マユミにあやまったのか?彼女はな、お前が帰って来るのをずっと待ってたんだぞ。見合いも断わり、他の恋愛も一切せず、お前の帰りだけを待ち続けたんだぞ。」
だから?だからどうだと・・いや、あやまらなければいけない。全て俺のせいなのだから。
「いいのよ。気にしてないから。」彼女はきっとそう言うだろう。昔からいつもそうだったのだから。

 彼ら四人は席を立った。俺達を二人きりにしようという配慮からだろう。おせっかいな奴らだ。
「マスター、騒いですまなかったな。」
との言葉を残し、他の客の非難がましい視線を浴びながら彼らは退場して行った。あとには、飲みかけのグラスが四つと元の通りの静けさとだけが残った。
「ごめん、あの日は・・」
気まずさの中で言えた全てがこの言葉だった。なんとなく照れ臭くて・・いえただけでもましだろう。いつもならなんとなくはぐらかしてしまうのだから。
「ううん、いいのよ。昔のことだもの。」
沈黙。しかし沈黙だらけの再会とは恐れ入ってしまった。いつもなら陽気に体験談を聞かせてくれる彼女なのに。やたらとおしゃべりな二人なのに。ああ、みんな俺が悪いのだ。
「出ようか。」
この言葉は二回目の努力の結果であった。この努力だけは認めてもらわなければ身もふたもない。彼女の頷きがどれほどすばらしいものに思えたことか!

 店を出ると、しとしとと雨が降っていた。俺達は水溜まりに広がる波紋がちらつく中を傘もささずに寄り添って歩いていた。あの日、俺が彼女に「さよなら」を言った何年か前のあの日と同じだった。あの日の事が頭の中を過った。
さよならを言う俺。
うつむいて何かを耐え、溢れ出しそうになる涙をじっとこらえているマユミ。
そして、そんな風にしてなかなか別れない俺達の間を無常にも引き裂き、「早くしろ」という無粋なたったの一言で連れていった
同僚。あいつは結局死んじまった。バチが当たったに違いない、ざまあみろだ!

 「別れ橋」の近くまでやって来た。あの日と全く同じ、一つだけ違うのは、今度は2人の仲を邪魔する奴がいないということだけだ。
俺は彼女が好きだった。そして彼女も・・だからこそ、あの日別れることを決心したのだ。だが今回は、そう、今回だけはそうしてはいけないのだ。なぜならこれは俺が望んだことなのだから。
「マユミ!」
俺は彼女を抱きしめた。端から見れば大胆な行動だが、俺をつき動かしているこの想いが本物であることはお互いに知っていた。だから彼女も抵抗などはしなかったのだろう。
「俺はもう何処へも行かない、いつまでもこの街で暮らす。一緒にいてくれるだろう?なっ、マユミ。」
彼女は俺の腕の中で激しくむせび泣きながら、小さくではあったが頭を横に振った。少しためらいはしたものの・・・
(俺は彼女に拒否された)
その事実が俺の頭をうち、体を金縛りにした。何故?どうして?
俺は彼女の肩に手を置き、ゆさぶりながら尋ねた。
「何故なんだマユミ。どうして?!確かにあの日、俺は君を、結果的にとはいえ捨ててしまった。でもこうやって戻って来て、やり直そうとしてるんじゃないか。身勝手なことだとは思うけどさ・・どうして?!」
「お・・遅すぎたのよ、その・・・・言葉・・・あの日、あの時言ってくれたら、どんな所にだってついて行けたのに・・・・・」
彼女の体が淡く紫色に光を発し始めた。俺の胸から離れて走り去ろうとする彼女の手を”行かせるものか”という一念の元に握りしめた。だが彼女の顔はさらに悲しみを増し、さらなる涙が溢れ出して頬を濡らした。

 (女を泣かした。)
(悪い奴だ。女を泣かせやがった。)
(まったく、女の敵ね。)
(いーやや、いやや、泣かせよった泣かせよった。)
(あいつ悪い奴だなあ。)

通りを歩いている人々が俺を非難している。
ちがう!ちがうんだ、みんな聴いてくれ!
今の俺は被告席で唇を噛みしめながら耐えている、あるいは無実を喚き散らしている罪人だった。

(違う、違うんだよ!頼むから聴いてくれ!)
(いいや、違わない。事実は事実だ。)
(周りを見てみろよな。)
(彼女は泣いているじゃないか。)
(事実は認めたらどうなの?)

証言台に立つ彼らは糾弾の手をゆるめない。周囲に俺の味方は一人もいなくなっている。非難の風は飽くことなく吹き続けている。間もなく判決が下されるだろう。
きっと俺は自分の良心に責められているに違いない。心に見離されたなんて・・・もう・・・・・・終わりだ・・・

 「私、いいんです。」
遠いような近いような、妙に冷たくて寒い場所からマユミが言った。その妙な感覚は風のせいかもしれない。
「いいんです、もう。気にしないで下さい。彼とはもう会えないんですし、彼も気の毒なんですから・・」
「何を言ってるんだマユミ。こうして今いるじゃないか。これからはうまくやって行けるさ。」
俺は再び抱きしめんと、彼女の腕を引き寄せた。が、俺の腕の中におさまりかけた瞬間、そう、もうほとんどおさまっていたその瞬間、彼女の体は散り散りとなり、風に吹かれて流される光る紫の鱗粉と化した。と同時に、周囲の人々も同じ道を辿り、それぞれの方向へと散って行った。

 「マユミ、待ってくれ!頼む!」
俺は彼女の光が流されていく方へと走った。光はまるで導くかの様にゆっくりと、だが俺に追いつかれないぐらいの速さで確実にある方向へ向けて流れていく。
(くそっ!風よ止め!でないと追いつけないじゃないか。それにしてもなんて走りにくい道なんだ。まるで獣道みたいだ。)
俺は舗装されているはずの、妙に障害物の多い道を必死で走った。何度もつまずき、何度も転びそうになりながら。そして・・・・・

 泥まみれになって寝ころがっている自分に気が付いた。紫の光は、そうマユミはこんな俺の目の前に立っていたはずなのだ。だが俺にはもう見えなかった。おそらくは他の誰にも。
周囲を見回して映った光景は、爆撃の傷跡が生々しい廃墟の街だった。アスファルトに穴があき、瓦礫の山がそこかしこに転がっている。その間に見える物体は、おそらく住民の死体だろう。事実、手をのばせば届きそうな場所にも、千切れとんだ一本の足が転がっている。
そう、二週間前この街は、俺の故郷は爆撃を受けた。そしてその大規模な爆撃のため、街はマユミや親友やそのた大勢の人々を道連れにして滅び去ったのだ。
「マユミ、許してくれ・・あの時、俺にもう少し勇気があればこんなことにはならなかったのに・・頼む、許してくれ・・・・」

 だから、そう、だから今まで見ていた出来事は、おそらくは麻薬で頭のいかれた俺の見ていたはかない夢。薬の切れかけた中毒患者
の見る幻覚。そして俺の行動を糾弾する”良心”という名のレンズが映し出した蜃気楼・・・

 雨は未だに降って、俺の体を、俺の心をうち続けていたが、朝になれば誰かが、水溜まりの中で泥にまみれ、狂った様に笑いながら、それでいて口は詫びの言葉をつむぎだしている、麻薬中毒の軍人を見つけるだろう。結局はあの日を境として全ての道を踏みはずしてしまっていたのだから。

 廃墟の街に俺の狂ったうつろな笑いと、どこからか流れてくる調子の狂ったオルゴールの音が奇妙なハーモニーを作り出す。そして瓦礫の上には風に吹かれるすみれが一輪・・・色鮮やかな花一輪・・・・・・・・