俺は誰だ!

 「デートして下さい!」
俺はいきなりそう切り出した。一体何故こんなことを言い出したのか、また何の脈絡があるのかは本人すらわからない。ただこの時わかっていたのは、俺がなんとなくヤケになっていたのと、空が素晴らしいほど青く晴れ渡っていたことである。何をするにせよ絶好の日よりではないか!
さて、俺のそんな思惑はそっちのけで、言われた相手は目をまん丸にして呆然と立ちすくんでいる。「あっけにとられている」という奴かも知れないが、要は事態をよく飲み込めていないのだろう。まあ仕方がない事ではあるが。
(いつになったら返事をくれるんだろう・・)
俺はその娘の顔を真剣な顔でジッ!と見つめながらそんな事を考えていた。それはほんの一瞬の間だったかも知れないが、もしかしたらあまりの出来事に心臓が止まってしまったのではないか、と心配したくなる程長く感じられた。どうやら心配性らしい。
「え?」
その娘はやっと反応した。年の頃は二十±一・七歳、髪は長く眼鏡をかけていて、なかなかの美人である。重そうなカバンのすき間から何やら難しそうな名前の本が顔を覗かしていることから、おそらくは大学生というところか・・・・・。
「あのー、何とおっしゃいました?」
彼女はいささか顔をこわばらせながら尋ねてきた。俺はもっともだと言わんばかりに真剣に頷き返し、
「デートをしてもらえませんか、とそう言ったんです。」
と答えた。
彼女は冗談を言われたんだと思ったらしい。初めはニコニコしていた。がやがて俺が本気であるのを知ると驚きを通り越して恐怖を表した。そらそうだろう。街中を歩いているといきなり見知らぬ人間から「デートして下さい」などと言われたらあなたはどうしますか?え?喜んでついていく?それは予想外だ。やはりこういう反応を示すだろうと言って欲しかったのに。まあそれはともかく・・・・
「あのー、こんな、道の真ん中では何ですからそこの喫茶店にでも入りませんか?」
と彼女に提案してみた。いいかげん気になってきていたのだが、先程から通行人が道の真ん中につっ立っている俺達をじろじろと見ているのである。中には立ち止まってにやにやしている奴もいる。どうやら彼女にもその事が理解できたらしい。何やら納得のいかないような顔をしていたが、しばらくして「わかった」という風にコクリと頷いた。だが結果的には、この事は俺の思う状態へは繋がらなかったのである。

(世の中とはそういうものだ。)

 「えー!記憶喪失?!」
俺は耳を押さえた。その行動は「うっそー!やっだー!ほんとー?」という感じのイントネーションで発せられたその言葉が流れ始めるのと同時だった。とは言え、流れる前に押さえるのは無理だし、事実耳を押さえた頃には全ての言葉は発し尽くされていた。従って聞こえてしまってからでは遅いと思うのだが、キンキン声を聞いた時、人は耳を押さえるという行動を無意識のうちにやってしまう。「反射行動」と俗に言われる行動である。
「ええ、実はそうらしいのです。自分の名前とか住所とか職業、家族構成、その他何も思い出せないんです。だた一つわかっているのは、自分の記憶力に関しては多少の自信があるということだけなのです。」
周囲から同情や好奇の視線が突き刺さってきているのがわかる。まあ普通の人間は記憶喪失の奴に会うことなんてないわけだから、わからんでもないが。俺だってそんな奴がいたなら同じ行動をとったに違いないのだから。
「まあそうでしたの。それは大変でしょう。そうだ!うちへいらっしゃいませんか?兄なら記憶喪失でも直せると思うんですけど。」
大変なのには違いないが、彼女の言葉は有り難かった。不治の病にかかった男がいきなり、「特効薬がありますよ」と言われたら丁度こんな感じだろう。
「ほ、本当ですか?!ぜ、是非紹介して下さい、お願いします。早く行きましょう、今行きましょう、すぐ行きましょう。」
俺は彼女をせかし、席を立って店を出ようとしたが、彼女は席に座ったまま黙々とパフェを食べ続けている。訝しげに尋ねると彼女はにっこりと微笑んでこう言った。
「あら、折角のデラックスパフェですもの、最後まで食べて行かないと、ねっ。あっ、それからお勘定の方はお願いできるんでしょ?ほんの千円ぐらいだし。」・・・・・・・・・・・・女は強し・・・

 「どうも、私が川田京二です。」
白衣に銀縁眼鏡、少しひょうきんそうで博識らしい天才タイプの男。第一印象はそんなものだった。この時はまさか彼が恐るべき伝説の”気違○博士(M・S)”だなんて思いもよらなかったのだから。
「なる程、なら話は簡単だ。要はついこないだ作ったばかりの例の装置を少々改造すればいいわけだからな。」
彼に経緯を話してみたところの返事がこれである。はっきり言って俺は帰りたくなった。なんとなく、いや明確な恐怖感を覚えたためである。彼のあのうれしそうな顔、態度、俺のことをまるで新しいおもちゃかなにかの様に見ているあの目。普通ハンサムな男だと非常に情けない顔になるであろう状態なのに、何故かさらに(女性から見れば)魅力的であろう顔つきになるのである。それは同姓の俺からしてもうらやましい事で、もっと言えば腹が立つのである。
「美人の兄はハンサムか・・・」
きっと両親も美男美女なんだろう。なんでそうなんだろう。世の中理不尽だ。頭がよくてハンサムで、女の子にもててetcetc・・・それらもろもろのものがたった一人に集中していいのか!そんなのが許されるのか!
「え?何かおっしゃいましたか?」
そう言われて、あわてて周囲を見回すと、妙な顔をして俺の方を見ている兄妹に気が付いた。どうやらうっかりと声に出してしまったらしい。俺はうろたえもせずあわてもせず(ふりだけ)やんわりと受け流した。もっともあまり成功していたとは思えないが。
「いえ、すごい部屋だなあと思いまして。」

 テレビ、ビデオ、コンポ、テーブル、ソファー、観用植物、時計、ピアノ、布団、枕、ミラーボール、ロボット魚の入った水槽、ベルトコンベアetc
「一体全体、どの様に機能する部屋なんですか?」
「なに、簡単な事です。例えばこの縦横無尽に走っているベルトコンベア。あれは流れ作業用です。一つのものを作るにも速いに越したことはありませんから。それにあのコンポ、一見すると普通の市販品と変わりませんが、特殊な配線により特殊な音波を発します。あれとミラーボール、もちろん改造品ですが、とを組み合わせば容易にこの部屋を異次元空間にすることが可能です。」
「そ、そうなんですか?!」
驚いてしまった。異次元空間を簡単に作ることが出来るだって?しかしそんなものをどうするというのだろうか。別に仕事がはかどる訳でもないし、遅刻せずにすむ訳でもない。また、水泳がうまくなる訳でもないし、雨の日に傘がわりになる訳でもない。
「そういう馴れていない場所は人間に刺激を与えるんですよ。その刺激が必要なわけです。あなたの記憶を元に戻すための環境としてね。」
俺の小市民的な疑問に答える言葉を出してくれた。かと言って、さも納得したような顔こそしているものの、何故そうなるかわかっているという訳でもない。やっぱり無理してでも納得した方がいいのだろうか、それともしない方がより治療効果があるのだろうか・・・・・

「準備が出来ましたわよ。さあどうぞ。」
彼女(川田早苗さんらしい)が呼びかけてきた。”天使が運んでくる悪夢”、何の脈絡もなくそんな言葉が脳裏に浮かんだ。
見ると部屋の真ん中に、何やら左右に奇妙でやたらゴテゴテした装置をたくさんつけたソファーが置いてある。座り心地は良さそうだが、一つ間違えば歯医者の使う拷問台のようなデザインだ。そう思うと体が恐怖に凍りつき、背中を冷たいものが流れた。精神的外傷にこそなってはいないが、子どもの頃の嫌な思い出はおそらく誰しもが持っていて、決して忘れ得ぬものであろう。
俺は拷問台に縛りつけられながらぼんやりと考えていた。
(麻酔注射はあるのだろうか?)

 「いいですか?私の言う事以外の事はしちゃいけませんよ。」
「はい。」
注文の多い治療だと思うのだが、患者でありしかも無料で治してもらおうという人間がとやかく文句を言えるような筋合いではない。体をソファーに縛りつけられた上、頭や手足に電極だの何だのを付けられたのだ。これ以上、まだ望まれるのか?ここまで来て、俺のイメージは歯医者から刑場へと発展していた。
「それでは治療を始めます。いいですか?」
一応無愛想に頷いては見せたものの、喉はゴクリと音を立てていたし、もしかしたら顔も緊張にひきつっていたかも知れない。いずれにせよまかせるしか他はないのだし、俺が無理して頼み込んでいる訳だから(たとえ相手が喜々としていようと)、こちらから「だめです」などと言えるはずがないではないか。
(いいんだ、いいんだ。どーせ俺はモルモットなんだ。顔も悪いし頭も悪い。生きていたって何の役にも立たないんだ・・・・・。」
むに!
という感覚がしたと思った途端、風景が変化した。しばしの間いじけるのを止めて周りを見まわすと・・・赤というか黄というか青というか、別に信号機ではないのだが、いやもしかしたら紫かも知れないし、ピンクかも知れない。とにかく訳のわからない色彩が流れ出した。その中にたった一つだけ、俺の座ったソファーが空中に浮かんでいる。
背中を流れる冷たい物を感じ始め、続いて足がガクガク震えているのがなんとなくわかった。
カタカタカタカタ・・・・・・カタカタカタカタ・・・・・カタ・・・
その無限とも思える時間と常に流動している色彩との中でいつまでも座り続けなければならないようだった。これは非常に苦しい。今にもその辺から”ニュッ”と手が出てきて身動きのとれない俺を絞め殺すか、それとも鼓動の早い心の臓を文字通り鷲掴みにしてしまうのではなかろうか。そう思うといてもたってもいられなくなる。とにかくそんな感じが連綿と続いていた。
(おや?何の音だろう?)
何かが聞こえたような気がした。もちろんそれは錯覚だったのかも知れないが、間違いなく、確かに、何かが俺の視野の上の方で動き、妙な音をたてたのだ。そ、それに上から変な圧迫感を受けている。も、もしかしたら・・まさか、そんな・・・・・・冗談でしょう?!誰かなんとか言ってくれー!!
ゴーン
未知のものに対する恐怖心が絶頂に達し、悲鳴をあげようとしたその寸前、その鐘のような音は俺を丸ごと呑み込んでいた。

 (おや、ここはどこだろう。)
目を覚ました俺が真っ先に考えたのはそれだった。そこは見馴れぬ部屋だった。テレビ、ビデオ、コンポにテーブル、ソファー、まあそこまではわかるとしてあのベルトコンベアーは一体何に使うのだろうか?こんな訳のわからない部屋を見知っているはずがない。
「気が付かれましたか?」
見ると、まるで天使のような美人が俺をのぞき込んでいる。その微笑みは太陽よりもまぶしく、月の光よりも美しく、すみれの花よりも可憐で、それからえーと、えーと・・・・
「ああ、気が付かれましたか。どんな感じですか?」
声をかけられた方を振り返ると、これまたハンサムな男が彼女の隣へと立った。彼女の言葉を聞いて、俺の様子を見にきたのだろう。だが、とりあえずはこの二人にも見覚えがなかった。一体ここはどこで、この二人は誰なのだろうか。その疑問が解消されないうちに女性の方は俺達二人を残して部屋から出ていってしまった。
「どうです、今のご気分は。」
「ああ、悪くはないが・・一体ここはどこで君は誰だ?何故俺はここにいる?何も思い出せないんだが、良ければ説明してくれないか?」
「ええ、」と彼はこまごまと説明を始めた。
「実は、かくかくしかじか、という訳なんです。」
要約してみると「記憶喪失で困っているあなたを妹がうちに連れてきて、それを直したんです。」という風になる。
しかし電柱にぶつかった後、そんなことになっていようとは思いもしなかった。短時間とはいえ、いろんな体験をしたのだなあ、しみじみ・・・・・
(心理表現空間)
「あのー、で、お名前は思い出されましたか?」
しみじみと自分の世界に入り込んでいた俺に彼(川田京二という名らしい。ちなみに妹は早苗さん)が質問してきた。うるさい奴だとは思うのだが、世話になった(らしい)上、そんなことを言えば失礼もいいとこだ。従って、たかだか名前なんだし別に言ったところでどうということはないであろう、という結論に達した。
「私の名前は・・・・・・・・あれ?おかしい、思い出せない。」
彼の表情が曇り、俺もあせった。おかしい、何故思い出せないんだ?何故・・・あっ!そうか!この事実をしゃべるのは非常に気が滅入るのだが・・・・
「実は、実はですね・・・・」
「おまたせいたしました。紅茶でもどうぞ。」
早苗さんが盆皿にお茶とお茶菓子とを持って戻ってきた。そ、そんな、彼女の前でこんな情けないことを言わなければならないなんて。この世には神も仏もないのか!だが、し、仕方がない。
「京二さん。」
俺は小声で囁いた。
「彼女に一目惚れなんです。彼女を、早苗さんを僕にください。」
「カップメン三年分で手を打とう。その前に是非名前を教えてくれ。」
折角なおしたんだからと言わんばかりに、小声で囁き返してきた。俺の小さな野望も希望も、そのたった一言で崩れ去ってしまった。 振り返ってみると、思わずひそひそ話をしてしまった男二人を前に、早苗さんはキョトンとしている。それがまたかわいい。だが俺は恐るべき、そして限りなく情けない事実を話さなければならないのだ。俺は・・・俺は・・・・・・・・・
「実は・・・・私は・・私の名前は・・・・実は私は、記憶力が極端に悪いんです!自分の家どころか名前すら覚えられなかったんです!唯一覚えられたのは私はとてつもなく記憶力が悪いということだけなんです!お願いです、私の名前を教えて下さい。私は一体誰なんでしょう?!」

P.S.
世の中とは油断できないものである。