黄昏の街に日は暮れて

 「お久し振りね。何年振りなのかしら?」
それが数年ぶりに再会した彼女の最初の言葉だった。
「さあ、二年か三年か・・・忘れちまったよ。」
実際は忘れようのない年月だが、あの日のことがあるが故にそう言わざるを得なかった。俺達は静かなクラシックと少し薄暗い照明とが独特の雰囲気をかもし出しているとあるバーのカウンタースツールに、並んで腰かけていた。活気とはかけ離れた、静けさを求めるための場所だ。
「そう・・そうね、もう過ぎたことだものね。」
そう、今もあの時も・・もう二度とこんなことはないだろうから。

 勝手知ったる地下鉄の改札を出て、ある特別な出口を通って地上へ出る。そこはなつかしく、そして見馴れた街、そう俺は数年振りに生まれ故郷であるこの街に帰って来た。何年経ったのかなんて忘れたつもりでいたが、このにおいのせいで結局は思い出してしまった。従軍中に聞いた話では、この街も何度か爆撃をうけたらしいが、その様な気配はまるでない。日が暮れればあいも変わらず車のクラクションが鳴り響き、呼び込みをする派手な格好の男達、今夜の連れを探す厚化粧の女達、警官の吹く笛、何ら変わるものはなかった。
(なつかしいな、この空気。)
俺はこの街が大好きだった。別に生まれ故郷だからというわけではない。ただ単に・・そう、土地柄というか、その土地の持つ独特の雰囲気を気に入っていたのだ。少なくとも俺をこんな気分にしてくれる場所は他には見当たらなかった。これまでいくつもの街を渡り歩いたにもかかわらずだ。もしあったのならばそこに腰を落ち着けたであろうから。そう、ただ単に見つからなかっただけのことだ。
信号が青に変わる。ざわめきあう人々が横断歩道を埋める。
「あのホロディスク買った?」
「ほんでさー、あいつったらよー・・」
「あの課長、好き放題言いやがって・!」
何世紀も前から変わらないであろう日常的な会話が交わされ続けている。今までそうだった様に、これからもそうだろう。何一つ変わることはない。世の中は「日常」という名の下に流れを止めてしまっているのだから。

 ダウンタウンに入るには古い橋を渡らなければならない。もとは名前があったのだろうが、プレートは俺が子どもの時分にはとうに風化してしまっていて、今では何という名の橋だったのか知る者は誰一人としていない。忘れられてもう何世紀もの時がたつのかも知れない。
通称「別れ橋」
この橋から二本目の道を左に折れて二~三分歩くと見慣れた光景に出会うことが出来る。数年振りに見る街並、俺の生まれ育った街、仲間達と走り回った街角、恋人と語り合った赤レンガ造りの階段、そしてライバルと議論を交わした街灯の下etc・・それら全てが走馬燈であるかの様だ。いや、この街、俺の街そのものが巨大な走馬燈なのだ。
(連中は元気なのだろうか?)
(あの娘は今、どうしているのだろうか?)
(頑張り屋のあいつ、博士号を取ると言ってたっけ。)
いろいろな想いが胸に満ちてくる。昔のなつかしい記憶、そして一番楽しかった時の記憶。今の俺は傷つき疲れ果てた心をひきずっているだけのしがない犬っころ。あの頃の夢は何処へ行ってしまったのだろう?あいつと語り合った俺の夢は?あの娘に得意気に話した俺の未来は?
(もうどうでもいい事だ。)
最近になってからはそう思えるようになってきていた。
(今さら人生を変えることなんて出来やしない。俺は最初の段階で間違ってしまったのだ。後はその間違ってしまった道、いや川をただされるがままに流されて行くだけ・・・。)

 彼女と会ったのは偶然だった。あの時俺が立ち止まらなければ彼女とは行き違いになっていただろう。
そこは俺の生まれた家だった。その事実は俺が立ち止まってしげしげと眺めるには十分だったし、誰しもがそうする当然の行為だったろう。
買い物の帰りらしい彼女――俺の幼なじみで、いつでもどこでも俺と一緒だった――はパンやカンヅメのはみ出した大きな買い物袋を抱えており、俺の姿を見つけると「まあ!」とでも言い出さんばかりに目を見開いて驚いてみせた。
「少しの間、いいかな?あの店で。」
彼女は俺から目をそらすと、こくりとためらいがちに頷いた。
(変わらないのは横暴さだけだな。)
その認識がチクリと胸を刺した。

 ”あの店”こと”ヴィア ヴァイン!”はまだ時間が早いためか空いていた。ここが混雑し始めるのは真夜中を過ぎた頃で、朝方まで多くの常連客とほんの一握りの外来客とが店の雰囲気を楽しむのである。
客達は店の中に入った俺達に奇異なものを見る様な視線を一瞬投げかけ、(なぜなら、彼女は買い物袋を抱えたままだった。)そして例外なくすぐに興味を失ったかの様に目を元に戻した。
カウンターの一番端に自らの席を確保すると、とりあえず再会を祝するための酒を注文した。その間、いやここまで来る間、彼女は一言も喋らなかった。というよりかは喋ってくれなかったと言うべきかも知れない。一体何を不満に思っているのだろうか。一体何がわだかまっているというのだろうか。俺の中に何かしら”焦り”に似たものが増加していくのがわかった。
(不満なら)
俺はいらだちの中でそう思った。俺には覚えがある。あの日、必死になって止める彼女を結果的には振り切り、しまいには一言もなしに姿を消したのだから当然とも言えるだろう。もしかしたらその事を責めて欲しかったのかも知れない。この焦りに似たもやもやも、もしかしたらそのことで解消するのかも知れなかった。かと言ってそれを強要する様な資格が俺にあるだろうか?
(不満ならさっさと吐き出せばいい。わだかまりなら水に流せばいい。ただそれだけのことではないか。)
彼女が何を考えているのかは全然わからなかった。祝杯が運ばれて来た時、あまりの長い沈黙に堪え切れず、思い切って自ら切り出した。こうする以外どうすることも出来ないと判断したからである。
「元気そうで良かった。空襲が何度かあったとニュースで聞いていたし、心配してたんだ。」
彼女の表情が微かだが変化したようだった。今までぴたりとくっついていて、一言も発さなかった口も何かしらの言葉を紡ぎ出す兆候を見せている。だがそれも妙にさびしそうなものだった。
「そうね、お久し振りね。何年振りなのかしら?」
「さあ、二年か三年か・・・忘れちまったよ。」
彼女の声、久し振りに聞く彼女の声の(たとえその内容がどうであったにせよ)なんとなつかしいことか!
「そう・・そうね、もう過ぎたことだものね。」
だが俺とて、いつまでも熱くなっている歳ではない。彼女の雰囲気からこの科白が出てくるこ
とは最初からわかっていたはずだが、そう、なんとなく聞いてみただけなのだ。
再び沈黙が訪れた。形容するにふさわしい言葉の見つからない、不思議な沈黙だった。”一度も誰も望みはしない沈黙”
おそらくは世界で一番迷惑な沈黙。

 そんな間でも店の入り口が開き、数人の客が入ってくる。
ギィー、バタン!コツコツコツ
スッ、カツッetc・・・・
いろんな種類の音が、ゆったりとしたクラシック音楽が流れるだけの静かな店内に一種不釣り合いな音を提供し、わずかな時間、この空間の性質を少しだけ変えた。そして再び同じ音達の連続。
時計を見ると、店に入ってからさでに一時間半以上経過していた。妙に時間の経つのが遅いような感じがしたが、別にとりたてて気にはならなかった。何かを待っている訳でもなく、かと言って何かしなければいけない訳でもなし・・。戦場で、待つことには馴れてしまっていたが、――なにしろ、いつ来るかわからない補給と援軍を敵の包囲網の中で待ち続けたりしたのだから――俺は別段どうということはないのだが、彼女はよくもまあ、これだけの時間を気まずい沈黙の中で過ごせるものだ。
三度目のドアが開く音が響き渡り、四人の男が入ってきた。そいつらは俺達の沈黙をあっさりとやぶってくれた。俺の破れなかった沈黙を破ったのだ。結果として俺は彼らに負けたのだろう。
「よおマユミ、なんだ、今日は男連れかい?ん、おやぁマックじゃないか!久し振りだなあ。」
「エリックか!そういうお前も元気そうじゃないか。」
エリック・バーランド、俺の親友だった男。いや、今でも少なくとも俺は親友のつもりである。彼に会うと妙に心が和む。
「おいおい、俺達のことをお忘れでないかい。」
アーネスト、ウェストン、カーネル、エリックの横合いから声をかけてきた俺の親愛なる悪友たち。こいつらはいつまで経っても変わることはないだろう。
(いつまでも変わらない、か・・俺なんか一体どのくらい変わってしまったか・・・)
俺の暗い表情に反応してか、一瞬の空白が生じた。それを利用するかの様にバーテンが入り込んでくる。
「お客様方、申し訳ございませんが、当店は静かさの店ですので。」
事実、店の客らは冷たい視線を投げかけて来ていた。まるで我々のために折角の雰囲気が台無しだと言わんばかりに。実際少しはしゃぎすぎたらしい。俺達の再会の声は彼らの回顧の想いを断ち切ってしまっていたのだ。
「それからご注文は何になされますか?」
「あ?ああ悪い、スコッチをくれ。」
「はい、かしこまりました。」
俺は声を殺して笑った。エリックの声がやたらとおかしく聴こえたからである。沈着冷静なエリックにしては、やたらと上ずったその声が。
「ひでぇなあ、別に笑わなくたっていいだろう。」
怒ったような拗ねた様な不気味な声を出してみせた。かと言って実は冗談だ、などといういつものパターンかも知れないから、迂闊な事は言えない。

 酒が運ばれてくるまでの間、そして運ばれてからも、俺達は思い出話だけに花を咲かせた。俺が”今”を語りたがらなかったからで、結局のところは”今”に行きついてしまったものの、その時は「かなりわがままだな」と自分でも思ってはいた。だが、だからと言って何だと言うのだ。少しぐらいは俺の言うことをきいてもいいではないか、大体俺はこの世界の・・・

(はっ!)

俺は何を考えていたのだろう。いや、なんてことを考えたのだろう。こんなことを考えてはいけないのだ。

 「あの頃は良かったよなあ。みんなで近所にいたずらして回ったものだ。ジョンじいさんの所とかな。」
「ああ、そうだったな。よく怒られたもんだ。で、じいさんは今どうしてる?」
皆の顔が「何を言ってやがるんだ!」と言わんばかりに曇った。俺が不思議そうな顔をしていると、
「何言ってんだ。半年前お前に送った手紙に書いたじゃないか。死んじまったんだよ、肺ガンでさ。もう手遅れだったんだ。いい人だったのになあ」と。
「そうだったのか・・・」
手紙をもらった記憶はある。なのにそんな文面はどうしても思い出せなかった。そのことに関連して、何かもっと大切なことを聞いたことがある様な気がしたが、同じく思い出せなかった。何かが思い出させまいと記憶をブロックしているかのようだ。
「おいおい、記憶力が鈍ったか?」
そんなつもりはなかった。俺は昔から記憶力が良く、軍でもそれを見込まれたため、いろんなものを使わされた。それにまだボケるほどの歳ではない。
「ああ、どうやらそうらしい。」
とは答えたものの・・・

 「俺、結婚してねぇ。」
「そうなんだ。こいつ一人で抜けがけしやがったんだ。」
「そうそう、しかもかなりの美人だぜ。」
「そりゃ許せないなあ。」
薄い煙草の煙とグラスの中で揺れる氷の音。少し暗めの照明と静かに流れるクラシック。
4人が来てくれたのは非常に有難かった。次第にマユミも口を開くようになり、もうだんまりを決め込むのをやめていた。もっとも、俺に対する態度はまだ少し冷たかったが。
「まあ、マック。実は俺夢を叶えたんだぜ。」
「じゃあ院へ行ってるのか!」
「ああ、来年あたりは卒業できそうだ。もっとも、早く卒業してもらわにゃ大学の方も困るだろうけどな。」
「戦時特例法か・・・」
戦時特例法。「十五歳以上六十五歳未満の男子、及び十五歳以上五十五歳未満の女子は学生を除いては全て兵役に服する義務を持つ。大学に関しては兵器開発に関する分野以外は閉鎖し、そこの学生に関しては卒業後無条件で軍兵器開発部に入るものとする。」というとんでもない法律。そんな世の中の状況下で、よくもまあエリックは大学院まで行けたものだ!
「うん、うちの研究室が長距離航行用の新型エンジンを開発してな。それでなんとか誤魔化してね。」
「でもくやしいだろ、自分達の造ったものが兵器になるなんて。平和主義者のお前には。」
「ああ、でもいいのさ。エンジンは平和になってからも、いや平和になってから役に立つ、必ず。」

 うらやましい奴。俺と同じ夢を持ちながら、奴はかなえて研究職、俺はかなえそこねて一兵卒。たった一〇点の差でこのざまだ。あの日より前にも道は狂っていたわけだ。
「ウェストンはうまくやって結婚までしたけどね。俺は相変わらずさ。」
「全く、右に同じ。」
なつかしい仲間達の声を聴いていられるのは楽しいことだ。しかも隣にマユミがいればなおのことだ。だが、彼女は再びうつむいて、それを目敏く見つけたエリックは俺を責めた。
「お前、マユミにあやまったのか?彼女はな、お前が帰って来るのをずっと待ってたんだぞ。見合いも断わり、他の恋愛も一切せず、お前の帰りだけを待ち続けたんだぞ。」
だから?だからどうだと・・いや、あやまらなければいけない。全て俺のせいなのだから。
「いいのよ。気にしてないから。」彼女はきっとそう言うだろう。昔からいつもそうだったのだから。

 彼ら四人は席を立った。俺達を二人きりにしようという配慮からだろう。おせっかいな奴らだ。
「マスター、騒いですまなかったな。」
との言葉を残し、他の客の非難がましい視線を浴びながら彼らは退場して行った。あとには、飲みかけのグラスが四つと元の通りの静けさとだけが残った。
「ごめん、あの日は・・」
気まずさの中で言えた全てがこの言葉だった。なんとなく照れ臭くて・・いえただけでもましだろう。いつもならなんとなくはぐらかしてしまうのだから。
「ううん、いいのよ。昔のことだもの。」
沈黙。しかし沈黙だらけの再会とは恐れ入ってしまった。いつもなら陽気に体験談を聞かせてくれる彼女なのに。やたらとおしゃべりな二人なのに。ああ、みんな俺が悪いのだ。
「出ようか。」
この言葉は二回目の努力の結果であった。この努力だけは認めてもらわなければ身もふたもない。彼女の頷きがどれほどすばらしいものに思えたことか!

 店を出ると、しとしとと雨が降っていた。俺達は水溜まりに広がる波紋がちらつく中を傘もささずに寄り添って歩いていた。あの日、俺が彼女に「さよなら」を言った何年か前のあの日と同じだった。あの日の事が頭の中を過った。
さよならを言う俺。
うつむいて何かを耐え、溢れ出しそうになる涙をじっとこらえているマユミ。
そして、そんな風にしてなかなか別れない俺達の間を無常にも引き裂き、「早くしろ」という無粋なたったの一言で連れていった
同僚。あいつは結局死んじまった。バチが当たったに違いない、ざまあみろだ!

 「別れ橋」の近くまでやって来た。あの日と全く同じ、一つだけ違うのは、今度は2人の仲を邪魔する奴がいないということだけだ。
俺は彼女が好きだった。そして彼女も・・だからこそ、あの日別れることを決心したのだ。だが今回は、そう、今回だけはそうしてはいけないのだ。なぜならこれは俺が望んだことなのだから。
「マユミ!」
俺は彼女を抱きしめた。端から見れば大胆な行動だが、俺をつき動かしているこの想いが本物であることはお互いに知っていた。だから彼女も抵抗などはしなかったのだろう。
「俺はもう何処へも行かない、いつまでもこの街で暮らす。一緒にいてくれるだろう?なっ、マユミ。」
彼女は俺の腕の中で激しくむせび泣きながら、小さくではあったが頭を横に振った。少しためらいはしたものの・・・
(俺は彼女に拒否された)
その事実が俺の頭をうち、体を金縛りにした。何故?どうして?
俺は彼女の肩に手を置き、ゆさぶりながら尋ねた。
「何故なんだマユミ。どうして?!確かにあの日、俺は君を、結果的にとはいえ捨ててしまった。でもこうやって戻って来て、やり直そうとしてるんじゃないか。身勝手なことだとは思うけどさ・・どうして?!」
「お・・遅すぎたのよ、その・・・・言葉・・・あの日、あの時言ってくれたら、どんな所にだってついて行けたのに・・・・・」
彼女の体が淡く紫色に光を発し始めた。俺の胸から離れて走り去ろうとする彼女の手を”行かせるものか”という一念の元に握りしめた。だが彼女の顔はさらに悲しみを増し、さらなる涙が溢れ出して頬を濡らした。

 (女を泣かした。)
(悪い奴だ。女を泣かせやがった。)
(まったく、女の敵ね。)
(いーやや、いやや、泣かせよった泣かせよった。)
(あいつ悪い奴だなあ。)

通りを歩いている人々が俺を非難している。
ちがう!ちがうんだ、みんな聴いてくれ!
今の俺は被告席で唇を噛みしめながら耐えている、あるいは無実を喚き散らしている罪人だった。

(違う、違うんだよ!頼むから聴いてくれ!)
(いいや、違わない。事実は事実だ。)
(周りを見てみろよな。)
(彼女は泣いているじゃないか。)
(事実は認めたらどうなの?)

証言台に立つ彼らは糾弾の手をゆるめない。周囲に俺の味方は一人もいなくなっている。非難の風は飽くことなく吹き続けている。間もなく判決が下されるだろう。
きっと俺は自分の良心に責められているに違いない。心に見離されたなんて・・・もう・・・・・・終わりだ・・・

 「私、いいんです。」
遠いような近いような、妙に冷たくて寒い場所からマユミが言った。その妙な感覚は風のせいかもしれない。
「いいんです、もう。気にしないで下さい。彼とはもう会えないんですし、彼も気の毒なんですから・・」
「何を言ってるんだマユミ。こうして今いるじゃないか。これからはうまくやって行けるさ。」
俺は再び抱きしめんと、彼女の腕を引き寄せた。が、俺の腕の中におさまりかけた瞬間、そう、もうほとんどおさまっていたその瞬間、彼女の体は散り散りとなり、風に吹かれて流される光る紫の鱗粉と化した。と同時に、周囲の人々も同じ道を辿り、それぞれの方向へと散って行った。

 「マユミ、待ってくれ!頼む!」
俺は彼女の光が流されていく方へと走った。光はまるで導くかの様にゆっくりと、だが俺に追いつかれないぐらいの速さで確実にある方向へ向けて流れていく。
(くそっ!風よ止め!でないと追いつけないじゃないか。それにしてもなんて走りにくい道なんだ。まるで獣道みたいだ。)
俺は舗装されているはずの、妙に障害物の多い道を必死で走った。何度もつまずき、何度も転びそうになりながら。そして・・・・・

 泥まみれになって寝ころがっている自分に気が付いた。紫の光は、そうマユミはこんな俺の目の前に立っていたはずなのだ。だが俺にはもう見えなかった。おそらくは他の誰にも。
周囲を見回して映った光景は、爆撃の傷跡が生々しい廃墟の街だった。アスファルトに穴があき、瓦礫の山がそこかしこに転がっている。その間に見える物体は、おそらく住民の死体だろう。事実、手をのばせば届きそうな場所にも、千切れとんだ一本の足が転がっている。
そう、二週間前この街は、俺の故郷は爆撃を受けた。そしてその大規模な爆撃のため、街はマユミや親友やそのた大勢の人々を道連れにして滅び去ったのだ。
「マユミ、許してくれ・・あの時、俺にもう少し勇気があればこんなことにはならなかったのに・・頼む、許してくれ・・・・」

 だから、そう、だから今まで見ていた出来事は、おそらくは麻薬で頭のいかれた俺の見ていたはかない夢。薬の切れかけた中毒患者
の見る幻覚。そして俺の行動を糾弾する”良心”という名のレンズが映し出した蜃気楼・・・

 雨は未だに降って、俺の体を、俺の心をうち続けていたが、朝になれば誰かが、水溜まりの中で泥にまみれ、狂った様に笑いながら、それでいて口は詫びの言葉をつむぎだしている、麻薬中毒の軍人を見つけるだろう。結局はあの日を境として全ての道を踏みはずしてしまっていたのだから。

 廃墟の街に俺の狂ったうつろな笑いと、どこからか流れてくる調子の狂ったオルゴールの音が奇妙なハーモニーを作り出す。そして瓦礫の上には風に吹かれるすみれが一輪・・・色鮮やかな花一輪・・・・・・・・
 

俺は誰だ!

 「デートして下さい!」
俺はいきなりそう切り出した。一体何故こんなことを言い出したのか、また何の脈絡があるのかは本人すらわからない。ただこの時わかっていたのは、俺がなんとなくヤケになっていたのと、空が素晴らしいほど青く晴れ渡っていたことである。何をするにせよ絶好の日よりではないか!
さて、俺のそんな思惑はそっちのけで、言われた相手は目をまん丸にして呆然と立ちすくんでいる。「あっけにとられている」という奴かも知れないが、要は事態をよく飲み込めていないのだろう。まあ仕方がない事ではあるが。
(いつになったら返事をくれるんだろう・・)
俺はその娘の顔を真剣な顔でジッ!と見つめながらそんな事を考えていた。それはほんの一瞬の間だったかも知れないが、もしかしたらあまりの出来事に心臓が止まってしまったのではないか、と心配したくなる程長く感じられた。どうやら心配性らしい。
「え?」
その娘はやっと反応した。年の頃は二十±一・七歳、髪は長く眼鏡をかけていて、なかなかの美人である。重そうなカバンのすき間から何やら難しそうな名前の本が顔を覗かしていることから、おそらくは大学生というところか・・・・・。
「あのー、何とおっしゃいました?」
彼女はいささか顔をこわばらせながら尋ねてきた。俺はもっともだと言わんばかりに真剣に頷き返し、
「デートをしてもらえませんか、とそう言ったんです。」
と答えた。
彼女は冗談を言われたんだと思ったらしい。初めはニコニコしていた。がやがて俺が本気であるのを知ると驚きを通り越して恐怖を表した。そらそうだろう。街中を歩いているといきなり見知らぬ人間から「デートして下さい」などと言われたらあなたはどうしますか?え?喜んでついていく?それは予想外だ。やはりこういう反応を示すだろうと言って欲しかったのに。まあそれはともかく・・・・
「あのー、こんな、道の真ん中では何ですからそこの喫茶店にでも入りませんか?」
と彼女に提案してみた。いいかげん気になってきていたのだが、先程から通行人が道の真ん中につっ立っている俺達をじろじろと見ているのである。中には立ち止まってにやにやしている奴もいる。どうやら彼女にもその事が理解できたらしい。何やら納得のいかないような顔をしていたが、しばらくして「わかった」という風にコクリと頷いた。だが結果的には、この事は俺の思う状態へは繋がらなかったのである。

(世の中とはそういうものだ。)

 「えー!記憶喪失?!」
俺は耳を押さえた。その行動は「うっそー!やっだー!ほんとー?」という感じのイントネーションで発せられたその言葉が流れ始めるのと同時だった。とは言え、流れる前に押さえるのは無理だし、事実耳を押さえた頃には全ての言葉は発し尽くされていた。従って聞こえてしまってからでは遅いと思うのだが、キンキン声を聞いた時、人は耳を押さえるという行動を無意識のうちにやってしまう。「反射行動」と俗に言われる行動である。
「ええ、実はそうらしいのです。自分の名前とか住所とか職業、家族構成、その他何も思い出せないんです。だた一つわかっているのは、自分の記憶力に関しては多少の自信があるということだけなのです。」
周囲から同情や好奇の視線が突き刺さってきているのがわかる。まあ普通の人間は記憶喪失の奴に会うことなんてないわけだから、わからんでもないが。俺だってそんな奴がいたなら同じ行動をとったに違いないのだから。
「まあそうでしたの。それは大変でしょう。そうだ!うちへいらっしゃいませんか?兄なら記憶喪失でも直せると思うんですけど。」
大変なのには違いないが、彼女の言葉は有り難かった。不治の病にかかった男がいきなり、「特効薬がありますよ」と言われたら丁度こんな感じだろう。
「ほ、本当ですか?!ぜ、是非紹介して下さい、お願いします。早く行きましょう、今行きましょう、すぐ行きましょう。」
俺は彼女をせかし、席を立って店を出ようとしたが、彼女は席に座ったまま黙々とパフェを食べ続けている。訝しげに尋ねると彼女はにっこりと微笑んでこう言った。
「あら、折角のデラックスパフェですもの、最後まで食べて行かないと、ねっ。あっ、それからお勘定の方はお願いできるんでしょ?ほんの千円ぐらいだし。」・・・・・・・・・・・・女は強し・・・

 「どうも、私が川田京二です。」
白衣に銀縁眼鏡、少しひょうきんそうで博識らしい天才タイプの男。第一印象はそんなものだった。この時はまさか彼が恐るべき伝説の”気違○博士(M・S)”だなんて思いもよらなかったのだから。
「なる程、なら話は簡単だ。要はついこないだ作ったばかりの例の装置を少々改造すればいいわけだからな。」
彼に経緯を話してみたところの返事がこれである。はっきり言って俺は帰りたくなった。なんとなく、いや明確な恐怖感を覚えたためである。彼のあのうれしそうな顔、態度、俺のことをまるで新しいおもちゃかなにかの様に見ているあの目。普通ハンサムな男だと非常に情けない顔になるであろう状態なのに、何故かさらに(女性から見れば)魅力的であろう顔つきになるのである。それは同姓の俺からしてもうらやましい事で、もっと言えば腹が立つのである。
「美人の兄はハンサムか・・・」
きっと両親も美男美女なんだろう。なんでそうなんだろう。世の中理不尽だ。頭がよくてハンサムで、女の子にもててetcetc・・・それらもろもろのものがたった一人に集中していいのか!そんなのが許されるのか!
「え?何かおっしゃいましたか?」
そう言われて、あわてて周囲を見回すと、妙な顔をして俺の方を見ている兄妹に気が付いた。どうやらうっかりと声に出してしまったらしい。俺はうろたえもせずあわてもせず(ふりだけ)やんわりと受け流した。もっともあまり成功していたとは思えないが。
「いえ、すごい部屋だなあと思いまして。」

 テレビ、ビデオ、コンポ、テーブル、ソファー、観用植物、時計、ピアノ、布団、枕、ミラーボール、ロボット魚の入った水槽、ベルトコンベアetc
「一体全体、どの様に機能する部屋なんですか?」
「なに、簡単な事です。例えばこの縦横無尽に走っているベルトコンベア。あれは流れ作業用です。一つのものを作るにも速いに越したことはありませんから。それにあのコンポ、一見すると普通の市販品と変わりませんが、特殊な配線により特殊な音波を発します。あれとミラーボール、もちろん改造品ですが、とを組み合わせば容易にこの部屋を異次元空間にすることが可能です。」
「そ、そうなんですか?!」
驚いてしまった。異次元空間を簡単に作ることが出来るだって?しかしそんなものをどうするというのだろうか。別に仕事がはかどる訳でもないし、遅刻せずにすむ訳でもない。また、水泳がうまくなる訳でもないし、雨の日に傘がわりになる訳でもない。
「そういう馴れていない場所は人間に刺激を与えるんですよ。その刺激が必要なわけです。あなたの記憶を元に戻すための環境としてね。」
俺の小市民的な疑問に答える言葉を出してくれた。かと言って、さも納得したような顔こそしているものの、何故そうなるかわかっているという訳でもない。やっぱり無理してでも納得した方がいいのだろうか、それともしない方がより治療効果があるのだろうか・・・・・

「準備が出来ましたわよ。さあどうぞ。」
彼女(川田早苗さんらしい)が呼びかけてきた。”天使が運んでくる悪夢”、何の脈絡もなくそんな言葉が脳裏に浮かんだ。
見ると部屋の真ん中に、何やら左右に奇妙でやたらゴテゴテした装置をたくさんつけたソファーが置いてある。座り心地は良さそうだが、一つ間違えば歯医者の使う拷問台のようなデザインだ。そう思うと体が恐怖に凍りつき、背中を冷たいものが流れた。精神的外傷にこそなってはいないが、子どもの頃の嫌な思い出はおそらく誰しもが持っていて、決して忘れ得ぬものであろう。
俺は拷問台に縛りつけられながらぼんやりと考えていた。
(麻酔注射はあるのだろうか?)

 「いいですか?私の言う事以外の事はしちゃいけませんよ。」
「はい。」
注文の多い治療だと思うのだが、患者でありしかも無料で治してもらおうという人間がとやかく文句を言えるような筋合いではない。体をソファーに縛りつけられた上、頭や手足に電極だの何だのを付けられたのだ。これ以上、まだ望まれるのか?ここまで来て、俺のイメージは歯医者から刑場へと発展していた。
「それでは治療を始めます。いいですか?」
一応無愛想に頷いては見せたものの、喉はゴクリと音を立てていたし、もしかしたら顔も緊張にひきつっていたかも知れない。いずれにせよまかせるしか他はないのだし、俺が無理して頼み込んでいる訳だから(たとえ相手が喜々としていようと)、こちらから「だめです」などと言えるはずがないではないか。
(いいんだ、いいんだ。どーせ俺はモルモットなんだ。顔も悪いし頭も悪い。生きていたって何の役にも立たないんだ・・・・・。」
むに!
という感覚がしたと思った途端、風景が変化した。しばしの間いじけるのを止めて周りを見まわすと・・・赤というか黄というか青というか、別に信号機ではないのだが、いやもしかしたら紫かも知れないし、ピンクかも知れない。とにかく訳のわからない色彩が流れ出した。その中にたった一つだけ、俺の座ったソファーが空中に浮かんでいる。
背中を流れる冷たい物を感じ始め、続いて足がガクガク震えているのがなんとなくわかった。
カタカタカタカタ・・・・・・カタカタカタカタ・・・・・カタ・・・
その無限とも思える時間と常に流動している色彩との中でいつまでも座り続けなければならないようだった。これは非常に苦しい。今にもその辺から”ニュッ”と手が出てきて身動きのとれない俺を絞め殺すか、それとも鼓動の早い心の臓を文字通り鷲掴みにしてしまうのではなかろうか。そう思うといてもたってもいられなくなる。とにかくそんな感じが連綿と続いていた。
(おや?何の音だろう?)
何かが聞こえたような気がした。もちろんそれは錯覚だったのかも知れないが、間違いなく、確かに、何かが俺の視野の上の方で動き、妙な音をたてたのだ。そ、それに上から変な圧迫感を受けている。も、もしかしたら・・まさか、そんな・・・・・・冗談でしょう?!誰かなんとか言ってくれー!!
ゴーン
未知のものに対する恐怖心が絶頂に達し、悲鳴をあげようとしたその寸前、その鐘のような音は俺を丸ごと呑み込んでいた。

 (おや、ここはどこだろう。)
目を覚ました俺が真っ先に考えたのはそれだった。そこは見馴れぬ部屋だった。テレビ、ビデオ、コンポにテーブル、ソファー、まあそこまではわかるとしてあのベルトコンベアーは一体何に使うのだろうか?こんな訳のわからない部屋を見知っているはずがない。
「気が付かれましたか?」
見ると、まるで天使のような美人が俺をのぞき込んでいる。その微笑みは太陽よりもまぶしく、月の光よりも美しく、すみれの花よりも可憐で、それからえーと、えーと・・・・
「ああ、気が付かれましたか。どんな感じですか?」
声をかけられた方を振り返ると、これまたハンサムな男が彼女の隣へと立った。彼女の言葉を聞いて、俺の様子を見にきたのだろう。だが、とりあえずはこの二人にも見覚えがなかった。一体ここはどこで、この二人は誰なのだろうか。その疑問が解消されないうちに女性の方は俺達二人を残して部屋から出ていってしまった。
「どうです、今のご気分は。」
「ああ、悪くはないが・・一体ここはどこで君は誰だ?何故俺はここにいる?何も思い出せないんだが、良ければ説明してくれないか?」
「ええ、」と彼はこまごまと説明を始めた。
「実は、かくかくしかじか、という訳なんです。」
要約してみると「記憶喪失で困っているあなたを妹がうちに連れてきて、それを直したんです。」という風になる。
しかし電柱にぶつかった後、そんなことになっていようとは思いもしなかった。短時間とはいえ、いろんな体験をしたのだなあ、しみじみ・・・・・
(心理表現空間)
「あのー、で、お名前は思い出されましたか?」
しみじみと自分の世界に入り込んでいた俺に彼(川田京二という名らしい。ちなみに妹は早苗さん)が質問してきた。うるさい奴だとは思うのだが、世話になった(らしい)上、そんなことを言えば失礼もいいとこだ。従って、たかだか名前なんだし別に言ったところでどうということはないであろう、という結論に達した。
「私の名前は・・・・・・・・あれ?おかしい、思い出せない。」
彼の表情が曇り、俺もあせった。おかしい、何故思い出せないんだ?何故・・・あっ!そうか!この事実をしゃべるのは非常に気が滅入るのだが・・・・
「実は、実はですね・・・・」
「おまたせいたしました。紅茶でもどうぞ。」
早苗さんが盆皿にお茶とお茶菓子とを持って戻ってきた。そ、そんな、彼女の前でこんな情けないことを言わなければならないなんて。この世には神も仏もないのか!だが、し、仕方がない。
「京二さん。」
俺は小声で囁いた。
「彼女に一目惚れなんです。彼女を、早苗さんを僕にください。」
「カップメン三年分で手を打とう。その前に是非名前を教えてくれ。」
折角なおしたんだからと言わんばかりに、小声で囁き返してきた。俺の小さな野望も希望も、そのたった一言で崩れ去ってしまった。 振り返ってみると、思わずひそひそ話をしてしまった男二人を前に、早苗さんはキョトンとしている。それがまたかわいい。だが俺は恐るべき、そして限りなく情けない事実を話さなければならないのだ。俺は・・・俺は・・・・・・・・・
「実は・・・・私は・・私の名前は・・・・実は私は、記憶力が極端に悪いんです!自分の家どころか名前すら覚えられなかったんです!唯一覚えられたのは私はとてつもなく記憶力が悪いということだけなんです!お願いです、私の名前を教えて下さい。私は一体誰なんでしょう?!」

P.S.
世の中とは油断できないものである。
 

時間 ~Long Long Time~

 私はロボット。長い長い時の流れの中を動いてきたロボット。いつも一人だけ取り残されてきた。体の中では錆びついた歯車がギシギシと音をたてながら回り、弱り切った燃料電池は流す電気量を減らしてきている。まるで私に反抗しているかの様に。薄暗い地下室でただ一人、うつむいて座り込んでいるだけ。

 昔々、女の子がいた。ショートカットの良く似合うボーイッシュな娘だった。
私と彼女は一緒に、よく学び、よく遊び、そしてよく眠った。私は彼女の一部であり、親友であり、幼ななじみであり、そしてまた仲間でもあり、時には恋人だった。
夏の海にいやがる私を無理矢理連れて行ったのも彼女だった。あの後、潮風で錆びつき動けなくなった私に、涙をボロボロこぼしながら謝っていた姿を今でも覚えている。あの頃は楽しかった。そしてその時は永遠に続くものだと、少なくとも私はそう思っていた。
しかし、彼女が成長し、大人に近づいていくにつれ、彼女の視線は少しずつ私から離れていき、行動的にも穏やかなものへと変化していった。
やがて彼女は成人となり、よく晴れた春の日に真っ白なドレスを着て、見知らぬ男と手を取り合って、楽しそうに笑いながらこの家を出ていった。私を一人ぼっちにして・・・
彼女は今どうしているだろう?幸せに暮らしているだろうか。それと彼女にとっての私とは一体どの様な存在だったのだろうか。もし知っているなら、心ある人よ、教えておくれ。

 昔、男の子がいた。腕白でいたずら好きでどうしようもない奴だった。
私と彼は一緒に、よく語り、よく走り、そしてまたよくいたずらをし、よく笑い合ったものだった。彼は十九年間私とふざけあった気の合う友人であり、時には先生と生徒だった。
一緒に家のドアに水入りバケツをしかけ、親兄弟がひっかかるのを楽しみに待ったことがある。もっとも、この時は客がひっかかってしまい、後でこっぴどく叱られたものだったが、彼が。
しかし十九歳となる数日前、親と派手な喧嘩をしていきなり家を飛び出していき、それきりここへは戻って来なかった。あれ以来彼には一度も会っていないが、今でも元気に笑っているのだろうか。もし会ったなら心優しき人よ、伝えておくれ。私が今でも帰りを待っていると。

 画家がいた。若くて世間知らずの苦労を経験したことのない男だった。
私と彼は一緒に、山を歩き、小川を渡り、この国のいろんな場所をイーゼルとカンバスや絵の具などをしょって旅した。私と彼の助手であり、良き理解者だった。彼には大きな夢があり、量り切れない情熱があり、そして光り輝く希望とがあった。又、それを語ってくれる顔はまぶしいぐらい、生気に満ち溢れていて、私も彼のその話を聞かせてもらうのが楽しくてしようがなかった。そう彼の成功を心から望んでいた。
しかし、ある日突然、彼は自室で首を吊って動かなくなってしまった。私は驚いた。何故彼はこんな事をしたのだろう?昨日まで楽しそうに笑いかけてくれていたのに。
彼は自分の絵のほとんどを引き裂いていて、全く新しいカンバスの上に”自信がなくなった”と書いていた。”自信”とは一体全体何なのか、そんなに大切なものなのか、私にはわからない。彼の絵は今、大きな、街の美術館に飾られているというのに。

 それからしばらくの間、いや長い間私には一人の友人もできなかった。長い長い間ずっと一人ぼっちだった。私は自分の体が、整備もされないまま次々と朽ち果てていくのがわかった。自分の動作が鈍く、ぎこちなくなってきていることにはかなり前から気がついていた。暗いゝ地下室の中で、いつ現れるか知れない光を待ち続けていた。考える事と時間は掃いて捨てるほどあった。あの少女、少年、画家、時には実業家、教師、その他私にかかわった多くの、そしていろいろな職業の見知らぬ人々のことを。皆一体何のために生きたのだろうか。何のために私と知り合ったのだろうか。

 ある時、地下室の扉がゆっくりと開き、一人の男が入って来た。彼は私を見つけると、近寄って来て外へと運び出した。そしてその後・・・・・いや、やめておこう。そう、結局は同じだったのだ。彼もまた私を捨てた多くの人間のただの一人となっただけなのだから。

 私は蜘蛛の巣が張りめぐらされていて、埃の分厚く積もったあの地下室で今も静かに座り込んでいる。次の主人は、次の放棄者はいつ来るだろうか。私のまだ動ける間に現れてくれるのだろうか。
私はロボット。長い長い時を動いてきたロボット。体の中では錆びついた歯車がギシギシという音を鳴らしながら回り、弱り切った燃料電池は電力の供給をしぶっている。もうすぐ両腕両足は、変質・劣化したプラスチック部分で抜け落ちてしまうだろう。でもそれでもかまうまい。たとえ次の主人が目の前に現れなくとも。長い間、私は動いて”生きて”きたのだから。そろそろくたびれた。自らこの果てしなき物語にピリオドを打つのもいいかも知れない。
私はロボット。長い長い時間を動い・て・・・・・・・・

・・・カチッ
 

今日、寝る前に明日の予定(旧友の家を訪れる)を確認していると、いきなり警察から電話がかかってきた。応対して話を聞いてみると、何でも俺が死んだということだった。暴走車にはねられて即死だったらしい。遺体はぐちゃぐちゃ、顔なんかはホラー映画に出てくる怪物並みになってしまっていて、とてもじゃないが身元が判断できるはずもなく、持ち物から割り出したとのことだった。
(何と交通事故の多いことか)
電話を切った後、俺は嘆かずにはいられなかった。何しろ俺にも関係があるのだから。電話で
聞いてみたところ、その暴走車の車種はフレアΓというやつだった。そういやこの車、「AT車としては欠陥品ではないか」と新聞紙面を賑わし、運輸省が走行実験をやることになっていたはずだ。その矢先の事故とはねえ・・・。
おっと、この辺で事故じゃなくて、自己紹介をしよう。俺の名前は岡崎昇、大手自動車製造メーカーである「トウサン」のエンジニアである。ちなみに「トウサン」とは「東産」と書き、決して「倒産」ではない。例のフレアΓも実はうちの製品だったりする。うちも最近次々と起こる事故の対策にてんてこまいでね・・・おっと、又電話だ。
「はい、岡崎です」
「おお岡崎君か、なんだ元気そうじゃないか」
「は?ええ、まあ・・・」
課長からの電話だった。しかし一体どうしたというのだろうか、こんな時間に。
「実は先程警察から電話がかかってきてなあ。何でも君が死んだという話だったんで大急ぎで電話したんだ。いやあ、元気そうで良かった良かった」
「それはどうも、ご心配をおかけしました。この通り元気に?やってお・・・え?」
非常になさけない話だが、俺はこの時になって初めて話の内容が示す意味に気が付き、呆然となった。電話の向こう側では課長が何か言っていた様だが全く記憶がない。気がついた時には受話器は置かれていた。
「俺が死んだって?」と言葉に出してみる。とてもではないが信じられぬ科白である。自分自身の存在を否定するのだから当然なわけだが。
「何かの間違いだ。現に俺はここにいるじゃないか」
自分の体を確認してみた。確かに俺はここにいる。では死んだという俺は一体誰なのか?
(他人の空似だろうか?いや、持ち物から判断したと言ってたな。しかし俺は何も盗られたことはない。すると俺は夢を見ているのか?)
試しに頬をつねってみる、とやはり痛い。(ということは夢ではないということだ。では、そうか本人の空似・・・のわけがない)
これ以上いくら考えても答えが見つかるとは思えなかった。俺はなる様にしかならんと開き直り、酒を飲んで眠りについた。
東の空が明るくなって来た。また一日が始まろうとしている。朝は近い。

朝刊の内容は少々落胆させるものだった。例の事故?のことが報道されており、被害者欄にはしっかりと俺の写真が出ている。見出しには「自業自得?東産エンジニア事故死」の文字、そしてうちの社長のコメントのみならず、不思議なことに運輸大臣のコメントまでが入っている。全く親切この上ない配慮である。思わず何かしらわけのわからない怒りがこみあげていたが、それを抑えて友人の家へ行く準備を始めた。必要な物はヘルメット・懐中電灯・ドライバー・スパナ・カンヅメである。もちろん缶切りを忘れてはいけない。これだけの装備をナップサックに入れて背中にしょうと雨傘を手に家を出た。

三回目のチャイムを鳴らした時に彼が出て来た。俺の古くからの友人、川田京二である。彼と知り合ったのは大学時代で、その時彼は遺伝子研究室のエースだった。その後大学院まで進んだが、教授と対立して破門同様に院を中退してしまっていた。それからは天性のマッドサイエンティストぶりを発揮し、妙な物を発明しては大学時代の友人達を集めて披露するという生活を送っていた。彼に呼ばれた者は「またか」などと思いながらもどんな物を見せてくれるか楽しみにしているのである。
今回呼ばれたのは俺だけの様であるが、それでも彼はうれしそうであった。そして予想されたことではあったが、こう切り出した。
「よく来てくれた、感謝するぞ。ところでお前死んだんじゃなかったのか?俺幽霊の友人は初めてなんだよな。なあおい、どう思う?テレビ局来るかな?『幽霊を友に持つ男!』とかさ」
全くいつまでたっても軽い男だ、完全に状況を楽しんでやがる。他人の気も知らないで。
「水をさす様で悪いがな、俺はまだ生きてるよ。足だって・・・」
「ちゃんとついてる様だな」
さも足がついているのが残念だとでも言いたそうな口調だった。俺はそれをあえて無視してこう続けた。
「なあ、この事をどう思う?お前なら相談に乗ってくれると思ったんだが」
「まあそりゃ友達だからな。それに平安時代の幽霊画の幽霊には足がついてたらしいし、何も心配することはないと思うがな」
「貴様、真面目に相談に乗る気があるのか?」
奴はあくまでも俺を殺したいらしい。
「冗談だ、落ち着け。こんな所で立ち話もなんだから家へ入れよ。茶でも飲みながら話をしようじゃないか」

しかし相変わらず研究所と言ったがいい様な家である、それもマッドサイエンティストの。でなければ物置だ。俺は今台所にいるわけだが、それというのも居間が訳のわからん発明の山に占領されてしまっているらしいからである。この台所にしたって同様である。手術台とも思える作業台(本人は食卓だと言い張っていた)を始めとしてフラスコ・ビーカー(本人曰く湯飲み)試験管・使用目的のわからない機械類が所狭しと並び、部屋の隅にはカップラーメンの山、天井からは千羽鶴がつり下げられ、ベランダには奇妙な植物が密生している。その他の調度はといえば薬品棚と本棚に冷蔵庫・ガスコンロに炊事台、どう見ても十畳かそこらとしか思えないのによくもまあこれだけの物を詰め込めたもんだ。
「しかし相変わらずだな、お前の家も。もうちょっと何とかならんのか?」
「そうかなあ、とても素晴らしいインテリアだと思うが。ま、お前にゃこの感性はわからないだろうなあ」
と平気な顔で言ってのける。こんな感性がわかってたまるか!
「本当の所は、一時期忙しい時があってね、ここに道具を持ち込んだはいいが片付ける暇がなくてな」
そう言いながら川田は湯を沸かし始めた。しかし五〇〇ミリリットルビーカーで湯を沸かすのはやめて欲しいものだ。

「成程、確かにおかしな話だなあ」彼はしきりにうなずきながら言った。俺達は妙な味のする紅茶をすすりながら、いつもならば思い出話やら世間話やらに花の咲く時間に、今回の事故の真相を考えていた。今丁度俺が経緯を話し終えたところである。
「そうだろう、なあどう思う」と紅茶をすすりながら俺。そしてもう一言、「何でもいいけどな、ビーカーに紅茶を入れるのはやめてくれ!何が悲しゅうて一〇〇ミリリットルビーカーで茶を飲まにゃならんのだ」
「ん?フラスコの方が良かったのかな」
「いや、そうゆう問題じゃなくてだな・・」
「まともな皿なんぞ期待する方が間違っている。ぜいたくは敵だぞ。『欲しがりません勝つまでは』って言葉を知らないのか?」
「お前はいつの生まれだ!」
全く、こいつと話をしていると頭が痛くなってくる。俺はさりげなく話題を変えた。
「ところでこの紅茶変わった味がするな」
「ああ新製品だからな、俺が創ったやつなんだ。人体実験がまだだったからお前が来てくれたのは有難かったよ。何しろ自分が最初に飲むのはさすがに怖いからなあ、あっはっは」
「きっ、貴様、俺を実験台にしたのか!」
話題の転換もへったくれもない。しかもどんどん話が本筋からずれていく様な気がして仕方がない。するとめずらしく奴が助け舟を出してくれた。
「先刻の話に戻すけどな、ありゃあクローン人間ではなかろうか。」
「クレヨン人間?なんだそりゃ」
「クローン人間だ。く・ろ・お・ん」
「ふーん、クローン人間ね。SFじゃあるまいし、誰がそんなもん造るんだ」
「俺が今日お前を呼んだのは何故だと思う?俺がそのクローン人間の製造に成功したからじゃないか」
「よっ、さすがマッドサイエンティスト」
「誰がじゃ!まあそれはともかく、居間にそのクローン人間を待たせてある。おーい、ちょっと来てくれ」
彼は室内電話を通してそのクローン人間とやらを呼んだ。
「ちょっと待てよ、居間は入れないんじゃ」
「いや、その、なんだ・・・」
「何をうろたえてんだ?そうか、どうせバイトか何かを雇ったんだろ」と俺。
「人を何十分も待たせておいて何が『おーいちょっと来てくれ』だ」
聞き覚えのある声がすると共にドアが開き、見たことのある顔が現れた。いや、見たことがあるなんてもんじゃない、それは俺自身だったのだ。まるで狐か狸に化かされた様な感じだ。俺は思い切ってそいつに名前を訊ねてみることにした。
「あ、あなたは何というお名前で」
「何を言ってるんだ、岡崎昇だよ」となかば予想された答が返ってきた。だからといって俺本人だとは限らない。
「昨日の昼飯うまかったなあ」といってみた。
「何言ってんだよ。社内食堂のオレンジライスだろ、あのくそまずいやつをうまいと思う奴なんているもんか」
こいつは昨日の昼飯のメニューを知っていた。こうなった以上は奴を俺自身であると認める他はなかった。
「どうだ、驚いただろう」
川田が得意気に言った。確かに驚いた。しかし、一つだけふに落ちない事があった。
「お前一体どこから俺の細胞を手にいれたんだ?」
「別にお前の細胞を手に入れるつもりはなかったんだがな。夕べある病院にいる知り合いから事故死した奴の細胞を分けてもらったんだよ」
「そして再生されたのが俺だったと」
「まあそういうことだ。俺も最初は驚いたよ。もっとも、こいつと話をしている最中にお前が来た時はもっと驚いたがね」
「ということはやはり俺は夕べ死んだんだな。じゃあここにいる俺は一体誰なんだ?」
「今思いついたんだがな、お前か、それとも死んだ奴のどちらかがドッペルゲンガー(二重像又は分身)だったんじゃないか?」
「だとしたらお前がドッペルゲンガーだ」
俺はいきなり先手をとられてしまった。だがこれくらいのことで負ける俺ではない。即座に言い返してやった。
「クローンの分際で何を偉そうに。証拠はあるのか、証拠は」
「何言ってやがる。俺は昨日の朝、課長から残業してくれと言われていたんだぞ。そして俺は残業した。その時間お前は一体どこにいたんだ」
そう言われてみるとそうだった。が俺には残念ながら残業した記憶がない。ということは必然的に死んだ奴が本物の俺で、ここにいるこの俺はドッペルゲンガーということになる。ドッペルゲンガーの現れた人間は数日のうちに死ぬという。つまり、俺というドッペルゲンガーに現れられた本物の俺は本当に死んでしまい、何故か偽者の俺がまだ消えずにこの世界にのこってしまっていたのだ。
俺は自分が偽者だと知ってしまったことにより、失意のどん底に堕ちいったまま川田の家を出た。もうとっくに陽は暮れており、辺りは真っ暗だった。俺は自分でも気付かぬうちに家へ向かってとぼとぼと歩いていた。自分はこれから一体どうなるのかと考えながら。すでに完全に周囲から孤立し、半分我を失っていた。
しばらくして俺は目もくらまんばかりのまぶしい光に全身を照らされて我にかえった。自分でも気が付かないうちに、うっかりと赤信号になっている横断歩道の真ん中に立っていたのだった。まぶしい光の源は俺の目の前に迫っている車のヘッドライトであることに気がついた、と同時に、今までの自分の人生、生まれてからの二十数年間、そして今度の事件のことが俺の脳裏を過った。それが大きなクラクションの音にかき消され、悲鳴の様なブレーキの音に邪魔された時、本物の俺も同じ様な体験をしたのだと思った。それが俺の最後の思考だった。

最初に戻らないで下さい。

翌日、本物の岡崎昇のクローン人間(以下俺)は家にいた。すると警察の者が電話で、『岡崎昇さんが死亡なされたのですが、死体が消えてしまいまして・・』と報告してきた
「やれやれ、俺のドッペルゲンガーは死んだのか。案外情けない奴だったな。同じ自分として恥ずかしい」
本物の自分の事は口に出さなかった。やはり自分の核となった人間まで情けないとは言えないらしい。それほどまでに何故か自分がクローン人間であるという自覚があった。が、そんな自覚を持つクローン人間も珍しいといえば珍しい。
再び電話がかかってきた。俺は持っていたパンフレットを机の上に置き受話器を取った。相手は何の事はない、あの川田だった。
「え?次の日曜日に来いって?また発明品かよ。で、今度は一体何を発明したっていうんだ?え、何だって、時空間的複製製造装置?」
俺は机の上にあるパンフレットを見た。それには「忍術入門」と印刷されてある。やれやれ、これから俺は一体何人の「俺」に会うことやら・・・