タバコ

目が覚めると、そこは異世界だった。別に望んだわけではないが、その世界ではタバコを吸う者が一人もいなかった。

 

最初に異変に気がついたのは、通勤のバスを待つ列でだった。タバコを吸い始めると同時に、周りにいる人々が異様な目で俺を見ているのだ。中には昨日まで吸っていた黒縁眼鏡のおっさんまでいた。
(何が珍しいんだろう?)
そのうちバスがやってきたので、タバコを足下に捨て、足で揉み消す。周りの人々の視線が痛い。
異様さは会社に着くとさらに大きくなった。机の上にあったはずの灰皿が消えているのだ。毎日二箱は消費する俺の机には、専用の大きいな灰皿を置いてあったはずなのだが・・・。
「なぁ君、俺の灰皿知らない?」
と向かいに座っている女の子に話しかけたが、「灰皿って何ですか?」
という返事が返ってきただけだった。てっきりふざけているものだと思い、
「ほら、俺ってヘビースモーカーだろ。タバコを吸わないと調子悪いんだよ。」
「タバコって何ですか?」
その頃には周りに課員がだんだん集まってきていた。俺はからかわれているんだと思い、タバコの効用-気分が良くなるとか、血圧が下がるとか-を話した。
埒があかないので、実演しようと一本取りだし、火をつけた途端、周りにいた全員が煙たそうに咳を始め、課長は「火事だ、火を消せ」と騒ぎ出す始末。
挙げ句の果てには消防車、パトカーまで現れ、警察で事情徴収を受けることになってしまった。刑事は鑑識からのレポートを見ながらこう言った。
「つまり何だね。君はこの極めて発癌性の高い煙を常習的に吸っていると。」
「あの、吸う人はフィルターを通して害のない程度に減らしてるはずなんですけど・・・」
「いや、明らかに害になっている。しかも周囲にはフィルターを通すよりも六倍多く発ガン物質が放出されている。長年かけて相手を病死に見せようという魂胆かね?」
「だからそんなんじゃないですって。あれを吸うと気持ちが落ち着くんです。」
「毎日吸っていると言っていたね。常習性のある新種の麻薬でもあるわけだ。」
刑事はどう言ってもわかってくれなかった。 その晩は留置所に泊まることになった。何がどうなったのかさっぱりわからなかったが、無性に泣けてきた。堅いベッドはそんな気持ちを増幅するのに役立っていた。
翌日、午前中に取り調べの続きを受けた後、会社から課長が面接にきた。どうやら俺は懲戒免職になったらしい。
(たかがタバコを吸ったぐらいで・・・)
そう思いもしたが、警察の取り調べで疲れ切っていた俺の心は、以外とすんなりその言葉を受け入れた。もうどうにでもなれというのが本音だったが、この状況を脱出できるのならタバコをやめてもいいとすら思った。

「ご気分はいかがですか?」
目を覚ました医者が俺に尋ねてきた。
「まぁまぁです。でもあれだけタバコの害を並べ立てられるとちょっと辟易しますね。」
「学習用のプログラムですからね。子どもの教育とヘビースモーカーの更正を兼ねてますから、ちょっときつめの演出になってます。」
「まぁ、あんなもんだろ。アメリカでは社長がタバコを吸う会社とは取引をしないという実例も増えているようですからね。社会的リスクを覚悟してもらうにはいいんじゃないですか?」
そう、これは催眠誘導装置によるタバコ教育プログラム。どうしてもタバコをやめられない人へのサービスとしての、我が社の社内ベンチャープログラムだ。
「さて、もう一本ありますけど、こちらも見ます?」
「ああ、お願いしよう。」
俺は再びベッドに横たわった。

目が覚めると、そこは異世界だった。別に望んだわけではないが、その世界ではタバコを吸わない者が一人もいなかった。
空気はもうもうと立ち上る煙で白く濁り、人の多いところでは霧がかかったようになっている。体質的にタバコを吸えない俺としては苦痛の極みなのだが、こればかりはどうしようもない。
街頭テレビが煙の向こうで喋っていた。
「このままタバコを吸い続けると人間の寿命が縮むだけではなく、大気の温暖化によって気候変動をも引き起こす可能性が・・・」